「おしまい」から始まるおはなし
おしまい
とある小さな村にネルという女の子が住んでいました。
ネルは、毎日家族のために遠く離れた泉から水を汲んで帰ります。
毎日、毎日、家族分のお水を汲む為に、何度かその道を歩きます。
その道すがらには、森と小さな小川があって、そこで感じる風の肌触りや、小鳥や水面の声。若葉が茂ってくる頃や、苔が生えた時は素足で歩き、ひんやりとした感じを楽しみながら歩きます。
何度も森にやってくるので、リスやうさぎとは、仲良しになれました。
今では一緒に、歩いてくれます。
ある日ネルは森で、不思議な大人に会いました。 半分赤くて半分黒い肌をしたその人は、ネルに言いました。
「毎日、毎日、大変だねぇ。いやぁ。それは、大変だよ。しんどいねぇ。それに、同じことの繰り返しで、退屈だろう。」その大人は言いました。
「うーん。退屈じゃぁないよ。」ネルは答えます。
「それは君が、ここしか知らないからだよ。世界はもっと広いんだ。君の知らないものも世界にはたくさんある。君はいろんなことができるのに、そんな退屈なこと毎日している。しかも、君はいつも1人じゃないか。それをいつも僕は可哀想に思っていたんだよ。」
「私は可哀想なの?」
「そう。可哀想だ。それに僕は君の笑顔が大好きなんだ。だから、君がその仕事を楽しくできるように、魔法をかけてあげるよ。」
そう言うと、スタスタと近づいてきて、桶に入った水面に唾を落としました。
するとどうでしょう。 水面が光ったと思うと、そこには、見たこともないいろんな世界が映し出されます。
森の中では聞いたこともない音の連なりが響いて、綺麗な景色や、街。 大道芸人や、機械仕掛けの乗り物や人。美味しそうな料理。
人がたくさん笑って、愉快なおしゃべりや、いろんな人の生活もそこで覗き見ることができます。
ネルは、いっぺんに毎日の水汲みが楽しくなりました。毎日毎日、水面に映る感動的で、不思議なものを見ながら、お水を運ぶのでした。
しかし、不思議なことに、ほんの数日後、お水を運ぶ回数はどんどん減ってゆきました。
そしてとうとう、ネルは、お水を汲むと、座ってそれを眺めるようになりました。そして、水面が濁ると水を捨てて、水を汲んで、また木陰に座って、ずーっと眺めて、何度もそれを繰り返します。暗くなるまで、そして月のある夜は暗くなっても、見ていました。
心配して、お母さんがやってきても、ネルは水面から目を離すことなく、手を引かれて家に帰るのでした。
ネルは、楽しくて、いろんなことが知れるその水面が大好きでした。
だから、ネルはあまり家には帰らず、ずっと泉のほとりで水面を見て暮らしてゆきました。
おしまい。
おしまい
水面を見ていると本当に飽きません。 お腹が空くことも、寒いことも、暑い事も、全部忘れて集中できます。
いつだったか、赤と黒の大人がやってきて
「そんなに集中できるなんて、すごいね。」って言ってくれました。
ネルは、好きなことを褒めてもらえて、心から嬉しくなり、水面をずっと見ていました。
どのくらい経ったのでしょう。
ネルは、水面に波紋が出るのを見つけました。ゆらゆら揺れて、水面がよく見えません。
雨です。
木陰に居たのでよく分かりませんでしたが、周りを見ると大きな雨粒がバサバサと降っていました。
ネルは桶を抱えて、家に帰ることにしました。
立ち上がったその時です。
「急にどうしたんだい?」
いつ来たのか、傍に赤と黒の大人がいました。
「雨粒で水面が揺れるから、お家に帰るの。」
「そうかぁ。それは大変だ。でも、雨の中を家まで走って帰るのは大変だよ。君に大変なことはさせたくないんだ。」
ネルは、なんていい大人なんだろう。と、思いました。
「そうだねぇ。じゃあ、目をつむって10、数えてごらん。僕がその間に、僕が、雨が降らないようにしてあげるよ」
ネルは、弾けるような声で「ありがとう!」と言うと、目をつむって数を数え始めました。
「1。2。3。4。5。…」
「ちゃんと数も数えられるようになったんだねぇ。えらいねぇ。」
大人がいいます。
7つを過ぎた頃、雨音が止みました。そして、
「……9。10。」
ゆっくりと目を開けると、雨は止んで、水面ははっきりとしています。
そして、大人はいなくなっていました。
ネルはもう一度、「ありがとう」をいいたかったですが、雨も止んだら水面を見るので、また会った時に言おうと思いました。
そして、またキラキラした木漏れ日に気づくことなく、水面を眺めるのでした。
おしまい
おはよう
水面が好きになってから、1人でいることは増えました。
周りの人が教えてくれることより、たくさんのことが知れて、周りにはいない人たちを見て、周りの人が知らないことを知ってるのを
ひとりで喜ぶのでした。
長い時間がすぎ、ある時、桶から水が漏れていることに気がつきました。
随分と昔に、お父さんに桶の直し方を教わりましたが、すっかり忘れてしまってます。
ネルは、お家に帰ることにしました。
途中、森の雰囲気は変わってましたが、ネルは気にも止めず家へと向かいました。
ところが、家のあった場所には、何もありません。庭のブランコも、鶏小屋も、小さいながらも豊かな畑も、何も無くなってます。
当然、そこには誰もいません。
村の雰囲気も一変してます。よく村を見渡すと、少しだけ見覚えのある人がなんとなく、チラホラいます。
ネルは、村の中を観察しながら歩いてみました。
そして、ネルは気がつきました。時間がたくさん経っていたことを。途方もない時間が経ってました。
それを教えてくれたのは、村の中で唯一変わらない場所の墓地でした。
そこには、大好きだった、お母さんとお父さんのお墓がありました。
ネルだけがまだ子どもです。
きっと周りの大人はネルと同い年だった、子どもたちでしょう。
ネルは、怖くなって、壊れた桶を持って、森に帰ることにしました。
森に帰る途中、1人のお婆さんに声をかけられました。
「おはようございます。よく眠れたかい?」
ネルは怖くて怖くてたまりませんでした。
ごきげんよう
壊れた桶と泉のほとりに帰ってきて、何日かしましたが、ネルはそれでも水が漏れる桶で、何度も何度も水を汲み直しながら、水面を見ていました。
いろんな音や不思議な出来事で楽しくさせてくれる、素敵な水面です。
村は変わってしまっているし、自分だけ子どもで、もう、全てが変だ。と感じていたので、理解することも、考えることも、受け止めることもやめました。
そしてある日、泉の水が随分と少なくなっていることに気づきました。
周りを見ると、草木は枯れ始め、ウサギや、リスたちもグッタリしています。
それでもネルは、泉から残り少ない水を汲み、水面を眺め続けました。
それは、怖いことが忘れられて、嫌なことを考えなくて済む、素敵な素敵な水面だからです。
そしてとうとう、泉の水は尽きしまいました。
その日から、ネルは動物たちが次々と死んでゆくのを、見ることになりました。
ネルはその動物たちが、なぜ、こちらを見ながら死んでゆくのか、考えたくありませんでした。
そして自分もそうなるのかと思うと、他の動物に食べられる亡くなった動物と自分が重なり、とても怖くなりました。
そして、桶を握って森を出ようとしました。
「大丈夫かい?ネル。随分と疲れ切った様子だねぇ。」
振り向くと、ネルのすぐ後ろに黒と赤の大人がいました。
「ねぇ。どこかにお水はないかしら。随分と喉が渇いて。しんどいの。」
「そうかい。そうだろうねぇ。あれだけ水を汲んでは捨てて、水を汲んでは捨ててを1日の間で何度も、繰り返して過ごしていたのだから、それはそれは疲れるだろうねぇ。」
「うん。だから飲む水もなくて…。どこかで水を汲んで来てくれないかしら?」
「ああ、いいとも。 でも、その前に、一つだけ質問に答えておくれ。」
「うん。いいよ。」
「君は随分と疲れ果てて動けなくなってしまっているようだが、どうだい?
自分に最悪なことが起きないと、動けないというのは?どんな気分なんだい?そんな自分をどう思うんだい?」
ネルは、とても嫌な質問で、何を言ったら良いのかよく分かりませんでした。
しばらくの間、ネルが黙っていると、赤と黒の大人が言いました。
「またくるよ。その時に水を持ってくればいいだね。わかった。」
すると、姿が消えると同時に、言葉が残って響きました。
「ごきげんよう。」
それはそうでしょう
赤と黒の大人が消えた後、ネルはしばらくの間、そこで、その大人を待っていました。
大人は子どもを見捨てないので、きっとお水を持ってきてくれる。
と、思い込むことをして、動かないことを選びました。
それはそうでしょう。ネルは子どもですから。
そして、いくら待っても、赤と黒の大人が現れることはありませんでした。
それはそうでしょう。
赤と黒の大人も、その時こどもだったのですから。
ある朝、気づくと少し体が元気です。 その日、周りには霧が立ち込めていました。少しですがこれまでより、ちゃんと体が動きます。
ネルは、何も写さない桶を捨てて、水を探しに歩き始めました。
なんとなく、
霧で見えなくなる方へ。霧で見えなくなる方へ。
生きようとする死にはじめた草を感じて。
土の感じが優しい方へ。土の感じが優しい方へ。
少しだけ、頑張れる自分を、頑張っている自分を感じられる方へ。
不思議とネルの身体は動きます。進みます。
それはそうでしょう。
頑張る自分を感じられるのだから。
歩き始めた時よりも、自分の足が元気です。
少し急ぎすぎたのか、何かにネルはつまずきました。
と、転びそうなネルをふわりと支えてくれました。
赤と黒の大人です。
「おやおや、頑張ったねぇ。こんなところにまで来るなんて。さすがネルだ。今、君ために水を運んであげてたんだよ。ほら。」
そういうと水の入った器をネルに見せました。
その器は変わっていて、なんといいますか、半分なのです。
大きなお皿をちょうど半分に割ったような器でした。
その器に、久しぶりに見る水がたゆたゆと揺らいでいます。
「さぁ。どうぞ。」
ネルはそっと口をつけて、その水を飲みました。
全て飲み干すと、少し求めながら赤と黒の大人を見上げます。
「わかってるよ。」
大人がゆらゆらと器を揺らすと、底の方からまた、水が湧き出てきました。
「さぁ。どうぞ。」
ネルは、またそっと口をつけて、水を飲みました。
美味しいです。
美味しいです。
ネルは、赤と黒の大人が傾けてくれる器のリズムに合わせて、水を飲みつづけました。
「ありがとう。」
ネルは呟きました。
「いいえ。どういたしまして。はい。」
そういうと、赤と黒の大人は、ネルが大好きだった桶を差し出しました。
ネルは嬉しくなりました。
「ここに入れる水も出せる?!」
ネルが今日一番の声で、いいました。
「もちろんさ。」
桶に水が注がれます。
ネルはワクワクしてきました。また、私を楽しませてくれる。
いろんなことを忘れられる時間がやってくる、楽しいだけの時間です。
「さぁ。どうぞ。」
桶に十分な水が入りました。
すごくワクワクします。
安心感もあります。
それはそうでしょう。
もう怖いことを、考えなくてよくなるのですから。
何かをすることが、それ以外何もしない、立派な理由になるのですから。
それはそうでしょう。
何もしなくていいのでしょう。
見ること以外何もできなくていいのでしょう。
それはそうでしょう。
桶と赤と黒の大人がネルを幸せにしてくれるのですから。
なんでもしてくれるのですから。
ネルは何もしなくていいのです。
もう、頑張らなくていいのです。
それはそうでしょう。
ネルは子どもですから。
それでいいのです。 ちゃんと子どもでいれるのですから。
自分が何もしなくていい理由がちゃんとそこにあるのです。
それは、みんなもそうでしょう?
ネルは水面を素敵な笑顔で覗き込みました。
それはそうでしょう。
そこには何もできない幸せがあるのですから。
ありがとう
ネルは、ワクワクした気持ちで、桶の水面を覗き込みました。
そこには、ゆらゆらした水面があって、うっすらキラキラしています。
まだ水面には、何も映っていません。あの楽しかった時間の記憶がネルの気持ちを焦らせます。
声がしました。
「ああ、ごめんごめん。唾を落とさないとね。」
「.................。」
ネルは、返事をしませんでした。
そうです。見てしまったからです。
水面を見ている時、赤と黒の大人が言葉を発するまでの間に、見てしまったのです。
自分のいやらしいニヤニヤした顔を。
自分の気持ちよさだけを貪るための笑顔を。
不思議なことに、自分の顔を見た時、これまで水面を見ること以外何もしなかった「これまで」を、ハッキリと感じることができました。
ネルは自分が恥ずかしくて、憎たらしくて、自分の事が嫌になりました。
心の底から湧き出る、恥ずかしさと愚かさの悲しみが、無言に表現されています。
「おや、どうしたんだいネル。そこに頭を置いていたんじゃ、唾を落とせないよ。」
「……とう。」
ネルが何か呟きました。
「?!」赤と黒の男が気付きます。
「よさないか。ネル。そんなこと、いいんだよ。」
「ぁ。。。。と。」
「?!」 微かな決意が不安を呼び込みます。
ですが。。。。
「ありがとう。」
何度目なのでしょう。ちゃんと言葉になりました。
「ありがとう。」
今度は、ちゃんと、赤と黒の大人の目を見て言えました。
赤と黒の大人は、その「ありがとう」に込められた気持ちが怖くて仕方ありません。おかげで怒りが吐き出そうです。
「いつだったかしら。私のために雨を止ませてくれて。」
「それも、ありがとう。遅くなってごめんね。ちゃんと言おうと、思ってたの。思い出せてよかった。」
恥ずかしさと、自分への憎らしさによる涙が左目に見えます。
「いいから。全然、いいから。そんなこと謝罪とか、感謝とかいいんだ!」
赤と黒の大人は、ネルの気持ちに追いつくようにいいました。
ネルは桶を地面に置いて、桶は見ないで、大人の目を見ていいました。
「これも、ありがとう。でも私、これを上手に使えない。」
そういうと、スタスタと、霧の薄い方へ歩いてゆきました。
「そっちは、行ってはいけないよ。危ないよ。ネル!」
赤と黒の大人は、心配させるようにいいます。
「大丈夫。私、水を掘らなきゃ。」
そういうと、白い霧を絡ませながら、泉へと歩みを進めるのでした。
ネルは、嫌な自分に出会うことで、好きな自分に帰る気持ちを持てました。
だから、嫌いな自分も一緒に、抱えてその場所に帰ることにするのです。
以前、赤と黒の大人に聞かれた質問に、今なら答えられそうですが、言葉にするのは意味がないので、心の中で大事にしておこうともいました。
はっきりと赤と黒の大人の唇と眼差しが思い出せます。
「自分に最悪なことが起きないと、動けないというのは?どんな気分なんだい?そんな自分をどう思うんだい?」」
心の中に響いています。
情けなさから生まれた決意の涙が右目に浮かびます。
「そうね。最悪だと思う。私は最悪なんだと思う。でも、私は、その最悪な私を絶対にあきらめない。」
彼女のあゆみの後ろ。
涙は、ゆっくりと植物と大地に浸透してゆきました。
大地が少しだけお返事しました。
「。。。。ありがとう」
はじまり
気がつくと、ネルは泣きながら、泉の底に石をぶつけて水を求めて掘っていました。
大切なことを思い出せた、痛みと悲しみで足掻く意志の涙です。
暫くして、ネルは疲れてしまいました。
血と泥で汚れた手を合わせている時、、、
「こんにちは。ネル。ここではないよ。」
ふと、声がしました。
周りを見渡しましたが、姿は見えません。
「ああ、ここじゃよ。もう見れるじゃろ?」
ゆっくりと空を見上げるように、上を向くと、どこからか吊り下げているように、小さな小さなお爺さんが、逆さまになって、浮いておりました。
空を向いた足先は重なって一つになり、そこから茎になり小さな芽が二つ生えてます。
「おじいさんは、誰?お名前は?」
ネルは当たり前のように聞きます。
「おやおや、まだそんなつまらない雰囲気が残っておったか。」
ハッとしたネルは、言い直しました。
「こんにちは。どこを掘ればいいですか?」
足が芽の老人は優しい雰囲気で答えました。
「水を戻そうと思うなら、水よりも先に器が必要じゃよ。」
真っ先に、ネルは赤と黒の大人が持っていた器を思い出しました。
「半分の器のこと?」
「聞く事はいいことじゃ、疑いとは違うからのぉ。。。そう。それじゃよ。」
「もらってくればいい?でも、どこにったら会える?半分で大丈夫なの?」
「・・・そうだねぇ。まぁ、しばらくは決めつけることも、急ぎすぎることも、もう、しなくていいんじゃよ。ネル。」
ネルは、その老人の語る言葉が、お水のように心に届くのが分かります。
「わかったわ。」
ネルは泉の近くにある、いつもいた木陰に近づいて、ゆっくりと目を閉じました。
なんとなく、赤と黒の大人にどうやったら会えるの分かります。
気づくべきは雰囲気です。
これまで気づくことのなかった、不満や不安の雰囲気です。
自分の中にそれがあること。これまでとは違って、気づかないままに、やってきません。
むしろ「こちらから」です。
「こんにちは。おじさま。改めてなんと呼べばいいですか?」
ネルは目を閉じたまま言いました。すると、彼の気配と頬に触れる感触が現れます。そして、それと共に…
「まさか、君からく来るとはね。こんにちは。ネル。 残念ながら私に名前はないんだよ。」
「なら、黒天使ね。」
しばらくの空白の後、
黒天使が小さくつぶやきました。
「こいつ、名前をつけやがった。。。」
瞼を閉じたネルの瞳は、しっかりと彼を捉えていました。
ごめんなさい
黒天使を捉えた目は相変わらず閉じられたままです。
しかし、しっかりと大きく彼を捉えていました。
「で、私に何の用かな?」
「私、あなたの持っている器が欲しいの。」
「それは無理だ。だって、ここにネルはいないじゃないか。渡そうにも、渡せないよ。それに、たとえここに居たとしても、あれはダメだよ。あれは渡せない。僕にとってとても大事なものなんだ。大事なものは簡単に手放してはいけないのだよ。」
「そうね。あなたの言う通り、本当に、そう思うわ。無くした後の悲しみから始めた私にはよくわかる。。。。。。本当に、知らない間に放り投げた私は最悪だわ。」
黒天使は、悔しそうに舌打ちをしました。
目の前に、ネルが突然現れたからです。
「随分と、短い間に、賢くなったものだねぇ。全く。その通りだ。」
「ありがとう。貴方のおかげだと、だいぶ言えるようになってきたわ。」
「それは、嘘だ。」
「そうね。私にとっては可能性になってるんだけど、まだ、あなたにとっては嘘かもね。」
黒天使の心に焦りが生まれます。 どんどんと成長してゆくネルは一瞬一瞬、まるで別人のようですが、その別々のネルとちゃんと手を繋ぐ透明なネルがいます。
「考えてもごらんよ。自分の欲のために、僕の持っている器を取ろうなんて、それも随分と最悪ではないのかい?自分のために人のものを奪うんだよ。」
「あなたは、奪ってはないの?」
「面白く意味のない質問だ。たとえ私が奪っていたとしても、それを奪うということは悪いことに変わりはないだろう。でも、やるというのならやったらいい。それこそ、『望むところ!』だ。」
「『ようこそ!』って、言いたそうね。」
黒天使は、対話の度にネルが目覚めるのが、置き去りにされているようで、イライラします。
少しそのイライラが溢れたのか、黒天使は、目の色を赤に変えて喋り始めました。
「今日、君は随分と、偉い人のようだ。 人を見下す雰囲気がよく出ているよ。強くなるとは、随分と、都合の良い雰囲気のようだね。」
ネルは、その雰囲気に心当たりがありました。でも、今は、何もしませんでした。黒天使に勝たなくとも負けることなく、器を手に入れなければなりませんから。
そして、その雰囲気を彼は見逃しませんでした。
「そういえば、君が桶を見ている間に、君の家族に会いに行ったよ。随分と、大変だったようで、何度も、君に声をかけるのに、君は一向に気づかない。足の悪い父親は、初めこそ君を責めたが、そのうち自分のせいだと気付いて、随分と自分を責めていたよ。私はその孤独な彼の話し相手だったから、よくわかる。毎晩のようにお酒を酌み交わしながら、彼の辛さを取り除くために、話を聞いたもんだ。いやぁ〜辛さを取り除くのには、苦労したよ。日々働くために、ストレスは解消しないといけないからねぇ。」
ネルは目を開けたくなりましたが、黒天使が逃げようとしているのをわかっていたので、不必要な頑張りを捨てて、目を瞑っていました。
「お母さんのことも、教えてあげよう。大好きだったろう。」
黒天使の目が笑い、薄く空いたその口の中に、黒い舌があるのが見えます。
心なしか、静かなその笑みの中に、同情の心があるように見えます。
ネルは、黙っています。
「ふふふ・・・。お母さんはねぇ。最後まで君を愛してたよ。誰もが君を責めるのだけれど、君のお母さんだけは、君を庇っていた。どんなに、村の人に白い目で見られようが、どんなに身内から責められようが、『あの子は、本当はいい子なんです。』って。私も頑張って、君のお母さんを支えたんだよ。『信じましょう。』って。『何もせず、自立を信じて、ほっときましょう。心が痛むようなら、今は、見ないでいましょう。傷つくのは辛いでしょうから、怒らせないように、そっとしておいて、触れないように。関わらないように。大丈夫。いつかちゃんと気づきますから。辛くなるので今は、見ないでいましょう。』僕も頑張ったよ。君のお母さんの心が傷つかないように。。。」
ネルは自分の心の中にわかっていたはずの傷が増えてゆくのを感じました。
痛みと悲しみが増してゆきます。何より、自分の中にある穴が塞がりません。
「みんな本当に苦労したんだ。君の為に。お母さんも、お父さんも、友達も。至らない君を想って。かばって、働いて、守って、それは見ていて、本当に美しかった。君の友達のキルなんかは、君を悪く言う人間と、喧嘩までしたんだ。みんな正しくて、美しかったよ。」
「それなのに君は。。。。。。」
黒天使は、ネルの動きを注意深く見ていました。ネルが自分をどのように感じているか。ネルが自分をどのように決めつけるか。よく見ていました。
「まぁ、君は『最悪』だったのだから、責められて当然なのにね。まさか、みんな、何も報われないまま、時が流れて死ぬとはね。。。かわいそうに。。」
「ああ、、、そういえば、弟も死んだのを知っているかい?」
ネルの心が大きく思い出し、揺れました。
桶を運んでいる頃、お母さんに、弟をねだったこと。お母さんとお父さんが、笑顔でその気持ちを喜んでくれていたこと。
そして、その弟がお母さんのお腹にいたこと。そのことに今、黒天使の言葉から、気づきました。
「おや、その傷は無かったようだね。随分と都合良く反省したもんだ。」
閉じた瞼の中に涙が溢れます。 いっぺんにたくさんの温かな思い出が溢れてきました。目を開けたくて、涙を吹きたくて仕方ありません。
黒天使が言いました。
「でもね。ネル。当時はそうだったかもしれないけど、過ぎたことは、仕方がないよネル。みんな一生懸命だったんだよ。誰も悪くない。君も悪気があって、ましてや、そのような不幸を作りたくて、そうしてたわけじゃないだろう。」
黒天使は、優しく、とても優しく、ネルに言いました。
ネルの心から悲しみと、涙と、優しさに反応する寂しい自分が生まれます。
涙を拭こうとした、その瞬間。
ネルは、グッと、その手で拳を握りました。
出てくる涙を拭うことをしませんでした。 出させてあげました。
無かったことにしませんでした。
瞼の裏の涙は、暗闇を超えて、今、ネルから流れて離れてゆきます。
ですが、ネルは暗闇で、しっかりとそれを抱きしめました。
許してもらう為の「ごめんなさい」ではなく、重さと悲しみを手放してしまった、自分の可能性を否定する私に。悲しみに弱い私に、今回こそ、あなたの力になる。と、心を決めて。
「ごめんなさい。」と。
ネルの沈黙と痛みに、随分と心地よくなってきた黒天使は彼らしい赤黒い笑顔を浮かべ、陶酔していました。
そのような彼だから、彼女を見えてはいません。なので、ネルのその雰囲気に気づくことはありませんでした。
そのせいでしょう。
次の瞬間、彼は驚きと恐れを持つことになります。
驚きの心地よい旋律が彼の目と耳に届きます。
深々と頭を垂れ、謝罪する、自分の至らなさを引き受けた姿があります。
その姿に、惑わされることのない、許してもらうことを目的とした謝罪ではなく、至らなさを自分に刻むための雰囲気がその場を包みます。
そのすぐ後、感謝をのせた言葉が、無防備な笑顔で溢れたネルから奏でられます。
「黒天使さん。私が悪いばっかりに、、ごめんなさい。そして、みんなの為に、たくさん。ありがとう。」
自分の最悪を無かったものにするためのものではない、純粋な感謝が彼に届いた時、黒天使の中に、これまでにない色が生まれました。
黒天使
黒天使はこれまで、「愛」を信じていませんでした。
そんなものはないのです。みんな、自分の思うように自分を愛してくれることを求めていて、誰かが私のことを「愛している」といっても、そこには、ズレがあって、誰も私を私が満足するように愛してくれることはないです。
なので、黒天使は、「愛」に憧れ、この世界で一番美しいと知っているだけに、そんなものは、存在しないと、発見したのでした。
そして人間がそのために傷つかない為に、自我を奪うことに専念しました。
夢見心地で、自分が今何をしているのかもよく分からず、無意識的に行動する。そうすると、自分の行為に意識がないので、他人のせいにして、傷つくことなく、他人を責めることで生きてゆけます。
そのために黒天使はありとあらゆるものを利用しました。
周りを使って「みんなそうしてるから。」
正しさを使って「あの人は間違ってるから。」
優しさを使って「あの人は感謝がない。」
知性を使って「あの人はバカだから。」
感情を使って「あの人は気に食わないなから。」
立場を使って「あいつは下だから。」
ありとあらゆるものを使って、人間の心が傷つかないように魂に働きかけました。
ですが、不思議なことに人の心は傷つくのです。黒天使が関わる以前より傷つきやすくなっているのです。
だから、人の心は、些細なことでも傷ついてゆくようになりました。
傷ついてしまうなら、それすらも感じさせなければいいと考え、何も感じないように魔法を作りました。
手軽に、気持ちよく。何も考えなくてすんで、時間があっという間に過ぎ、傷ついた自分にすらも意識を持てないように。
人をできるだけ考えさせないように。
「意味わからん。」
「今は忘れて、パァーといいこう!」
「いい考えがないので、もう考えるのをやめたら?」
「どうせ考えたところで、何も変わらないよ。」
「大丈夫。あなたは、間違っていない。」
「なるようになる!」
人間が自分の痛みに気がつかないように。その痛みの意味について考えなくて良いように、痛みが生まれてもそれを忘れられるように、魂に作用させ、色んなものが生まれました。
人間は、自分の気持ち良さに没頭できるよう、自己中心的な自我を育んでゆきました。その自我はその環境の中で、どんどん強くなってゆきました。
ネルは、
その作用を経験し、そして痛みの被害を受けた少女です。
しかし、自分の至らなさを引き受けた人間でした。
まだ未熟で、立派ではありませんでしたが、痛みを放り投げてはいませんでしたので、自我は強いままでした。
ですが、その自我は自己中心的ではありますが、わがままではありませんでした。何より、調律的だったのです。「悪」にも「善」にも。
黒天使は違った自我の強さを唱えるネルに恐怖しました。
ネル
愛されたいと思うことは、無駄なことだ。誰も、自分の思うように自分を愛してくれることはい。そんなものはこの世界にはない。
では、誰かに対して、あなたはそんなふうに、誰かが思うように、その人を愛したことはあるの?
私が言いたいのは、「して欲しい。」ということだ。「すること」ではない。
あなたがそうしないのに、なぜ世界がそうするの? あなたがすれば、世界は変わり始めるというのに。
それだ。その期待がいつも私を裏切る。
待てないのね。。。そんなふうに、世界を決めつけたら、そのようになってしまうわよ。
その被害を受けたくない。というなら、お前も私と同じだ!
それは大丈夫。だって、私とあなたの世界は違うから。あなたもそんな世界にいなくていいのに。
傷つかない世界を目指して何が悪い!辛い思いをさせないように配慮することの何が悪い!自分の気持ちいいように生きることが最良の人生だろう。
だとしたら目指すのは世界ではないわ。あなたが傷ついているのは、世界のせいではなくて、自己中心さのせいなのだから。
人間が傷つくのは、自己中心性からだというのか?!自我が強くなれれば、それは当然起こる現象だろう。人間は、「自我」を持つ種族だ。 それは大事にしないといけない。そして心に対しては、私が一番だ!私を否定するな。辛くなるからな。 人間の自我はこれからどんどん強くなる。自己中心的になるのは当然だ。
確かに、自我が強さを得るための途中にその道は通るでしょうね。
そうだ。自我とはそういうものだ。自我が強くなるということは、自分を大切に。自分を一番に考えることだ。
でも、その自我は大事にされてはいても、強いわけではないわ。痛みを避けているだけだもの。つまりは、弱い自我のままで強さを手に入れようとするから、そんな風に自己中心的になるの。 それが辛さと痛みへの理解を妨げてるのよ。
…では、人は痛みと辛さ無くして、自我を強く持てることはないというのか?
なら、人はずっと、痛みと辛さから抜け出れないではないか?その人生は、いいものではないだろう!それならば、自我の強さなどなくていらのではないか?
自分の感情を、想いを、存在を消してしまった方がいいではないか!
そんなことはないわ。私はもう、痛みや辛さの中にいれる。辛さや痛みを手放さない。
それは、お前が強いからだ。みんな、そんな風には生きれない。
あなたの言う通り、みんなが同じように生きる必要はないと思う。生き方はそれぞれであっていい。ただ、その一つとして私の生き方も認めてくれると幸いかな。
自我の強い人間がいいそうな言葉だな。それができないからみんな傷つく。
私が言ってるのは、「強さ」ではないわ。そして私はそんなに強いと思ってない。だって心は時折ちゃんと、痛いもの。
では、その在り方は、その心の在りようは、なんだというのだ?
「自由」よ。
強さを求めるのなら、痛みの中にいるのが一番でしょうね。鍛えられますから。…でも、辛いんでしょう?
辛い。。。
そうだとしたら、強さばかりを求めなくていいのでは?
だが、弱いままでも、心は傷つく。それをどのようにすればいいのだ。
そうですね。だとしたら、そんな時自由はこんなことを教えてくれたわ。その痛みのために必要なのは強さではなくて、治療なのではないか?、と。
治療とは?
何かを「愛すること」です。
でも、それだとまた、「愛されたい。」と思うではないか。
そうなってしまった時は、もう、「あなたは愛せる」ことを忘れてますね。まずは、それに気付きましょう。
あなたは「愛」を知ってる人です。その表現は、愛されたい人であるだけではなく、愛したい人でもあるのですよ。
その愛の届け先を見返りによって限定しなければ、その機会はいつだってあるのです。愛せる対象も、きっとたくさんあるわ。
大丈夫。安心してください。 あなたは、愛せる人でもあるのです。
黒天使は思いました。
もう一度、人間をしてもいいのかもしれない。
悲しみや痛みは消えないが、その都度それらを考え、見捨てることなく、抱きしめて、新たな命を与えられる、自由を持つ人間に。
黒天使はネルの中で、ネルの手の温かさを感じていました。
黒天使の手には半分の器が。ネルの手がもう半分の器の役割を担ってました。
ふしぎなおはなしですね。
もういちど読み返してみないと、わからないところもあるし、むずかしいところもありました。
読んでいるうちに、涙がとまらなくなってしまいました。
自分のなかのなにかと重なったからかもしれません。
意識のレベルでは理解できたとも思えないのですが、無意識の部分に何かが響いたからかもしれません。
このお話のつづきはないのですか?
このお話を読むことができてよかったです。
ありがとうございました。