クラス日誌とかきおき
「覚書」
最近出会ったことを、ここに残しておこうと思います。
自我はバランスの中でこそ、その能力を発揮する。
この世界を愛しているから泣くのであり、この世界に支配されたくないから笑うのである。
目の前にいる人がどのような人なのかは、その人次第ではなくて、私たち次第、なのではないでしょうか。
人生において大事なことほど、「なぜ?!」を連れてきて、そこには人生における深刻な意味が隠されている。
人間の語る「幸」「不幸」は人間の分野だけにみてとれ、同時に特定の領域内でのみ問題になってくる。
世界が私を応援していると感じれる時、「幸福」を感じ、世界との結びつきを感じられないとき、人は「不幸」を感じる。
「不幸」は私を完全なものにするための励ましでもある。
新たな認識や納得は、新たな命を生み出す。
誰かの不幸に対して役に経とうと考えるのなら、自分だけの立場から離れようとしない限り、その人の役に立てるわけがない。
人間は「幸せ」を自分の内なる鍛冶屋で生み出すことができる。
神は人間を「幸福」で釣らない。
人間が外の世界で体験する、比べることによる幸福は全て、「幸福」の例え話でしかない。
人生を進む私の小舟が、突風や荒波にどんなに揺らされようが、船に乗る私の内部を揺さぶることはできない。
風も波もどうであっても良い。 どのようであれ、私は私の内なる力で舵を取る
風と波を助けながら。
人生における「良いこと」「悪いこと」
私が私をみてあげていないと
私は
無意識に作用を受け
無意識に判断と感情を生み
無意識的にあるいは反射的に行動し
無意識にしてしまった「良い」「悪い」に浮かれ、思い悩む
良かれと思ったが、悪いものになってしまった私の行為
なんとなくで、うまくいってしまい、同意と賞賛を浴びることになった不幸
それらの渦から抜け出すには、自分を真ん中に置くこと
渦の中心は常に安定していてちゃんと地も空も見える
だから
意識的に私を反対におこう
相手の意見に「物申す!」と反応したら、黙ってとことん聞いてみましょう
相手の言葉になんの反応も感動も生まれないなら、集中して感動をみつけましょう
私の行為が「失敗」や「間違ってる。」と感じる心が生まれたならば、正当化を捨てて、その底からならば希望や願いに出逢いやすいでしょう。
私の行為が「賞賛」されたらなら、それを喜べる、私の考えを感動にまで昇華してくれた、その人の能力に「感謝」を届けましょう。
誰か過ちが、あなたを傷つけたのなら、同じしかたで相手を傷つけることでも、傷は吐き出すことはできるのですが、自らの力で傷を癒すこと。人生で生じる傷に耐える強さを犠牲にしてまで、吐き出さなくて、いいように思います。
叶うなら、その出来事があったとしても、その人のいいところ。または、その人から学んだことを捨てないであげましょう。
あなたの至らなさの存在が、あなたの良さを否定しないように。
引っ張られる私を真ん中に戻してくれる力は常に「抗い」なのです。
そしてその場所を、ある経験に対しても、その意味合いや、作用を一つにするのではなく、そこから生まれるいろんな感情や、いろんな観点を許せる「無限なる『在る』」の場所にしてあげましょう
仏教的には「空」になるのでしょうか。
人生は私がその動きをするためのきっかけをたくさんくれます。
よく人は、そのきっかけを反射的に無意識的に「不幸」と呼びますが、それは本名ではないです。
なので、その全てを語っていません。
全ての事柄の本質に出会えるように、そこにある矛盾に掻き乱されないように、自分を真ん中に。
純粋で、成長を促す意識という光があなたには在るのですから
あ、最後に上記の生き方の最高のコツは…
例えば、意識しようとしてできなくて、無意識的に反射してしまったり、
「逆」をしようとして、できなかったりの
「失敗」や「自己嫌悪」または
「調子に乗った結果の失敗」「ぬか喜び」
こういった、いわゆる失敗を繰り返すことです。
(いや「繰り返せること」です。)
大丈夫。 何度失敗しても、世界は、人生はあなたを諦めません。
何度もそうやって立ち上がる姿を世界は愛しています。そして、そのような人生は、世界との間で力が生まれ、あなたを真ん中へ導きます。
安心してください。 あなたが立ち上がるたびに、世界は、人生は、あなたと仲良しになります♪
魂の歩み
私たちは、生きてゆく中で、さまざまなものの影響を受けます。
それを無心に信じる時もあれば、反射的に反発してしまう時もあります。
それ自体を「いい」とか「悪い」とか、いうつもりはありません。
全ては私の名の下に「きっかけ」にすることができますから。
人生の中で、無心的であったり反射的であると、その人は人生で常にまるで、何かの仕業のように、人生の浮き沈みを経験することになったり、また、あるときは、不必要に頑なになり、本来願ったものとはかけ離れたところで、孤独に立ち尽くすことになります。
そういった状況も人生の一部なので、私が常に私の魂に意識的であれば、どのような状況であれ、変えることができます。(『帰る』かもしれません。)
私が私の人生をしっかりと、意識できるようになった時、
私の人生は私の経験のしっかりとした土台になり、
私の経験は、私の考えの根本となり、
その根本をよりどころに、新たな芽吹きが生まれ、
その両方で私は私の人生に道を作り、
その道を味わうことで、私を超えてゆき、
その歩みと味わいの繰り返しは、私の「在り方」や「私らしさ」を無限に育ててくれる。
そしてそれは、生死も超え、また、個人も超えてゆく。
それを、「受け継がれる」または、「生まれ変わる」という。
私も含めて、自分が愛せる行為を人生で紡いでゆけますように……
わたしを、ありのまま受け入れてくださる大切な人が居るから
少しずつ成長する私
覚書
規則は人の行為を禁止するときに
大変上手に働いてくれます
では、人の行為を促し導くものは、なんでしょう。
私はそれが「道徳」や「良心」です。
ただそこに辿り着くまでに、「欲」という道を通過することになります。
寄り道は、回り道でもありますが、味わい深く、やはり、通り過ぎてゆくものです。
覚書
私は自由でありたいと思う
そして完全なる自由は、何をも否定しない。
だから、私は、あなたの全部を私の個的な不都合さを癒しながら
受け入れてゆきたいと思う
時には上手にできないかもしれない
時には、否定を覚えるかもしれない
だけど、あなたを通して自由への道を歩めることを
私の自由は最高に喜んでいます。
「魂の暦」2月後半に
はせて置こうと思う、ありがとう。
「魂の暦」48週辺りに
はせて置こうと思います。
覚書
人は、繰り返し思い出せるものを「真実」と言いたくなる。
それに身を任せてしまうと、「真実」はいつも同じことを話すようになり、いつしかそれは「私にとっての限界」となる。
簡単に信じる人は、盲目的かもしれませんが、頑なに信じない人は、どこか高慢なのかもしれません。
何かを極めるには、それに没頭することが大切だが、「進化」となると、ある種、ある一定の能力の完全さを諦め、そこに、これまでにはない何かを注ぐこと。それによって、ある一定の能力は、新たな誕生を迎えるので、未熟さに戻り、破壊と再生や自己嫌悪とぬか喜びの道を歩む中で、ゆっくりと「進化」は促されるように思う。
経験や体験を自分の中でどのように組み立てたり、繋がりを結ぶのか。が、その人の魂の色合いを表している。
自分と向き合える自分だけが、霊界を認識できる。 自分主体のさまざまな自己感情の克服のための道徳水準が必要となる。
気持ちよさだけを求めて、どう実現すれば良いのか分からない欲求に流されると、魂は、不安と不満。そして不確かな雰囲気からいつまでたっても、逃れることができない。自我が人生に参加していない、欲求の満たし方をするのも、この不安を解消してはくれない。
その解消の道には、環境や外的作用から来る欲求に流されるのではなく、自我の命令に従う意志を世界で表現する。
「快」「不快」に溺れるのではなく、「快」と「不快」が何を物語っているのかを知ることが大切である。
沸き起こる心情を発散させるのではなく、内包できる度に、私は私の真実に歩みを進めてゆける。
人や事柄に、悪やうそ、汚さや、不道徳があったとしても、その人や事柄の中に真、美、善を見出そうとする態度を諦めてはならない。
どちらかが、どちらかを曇らせる存在であってはならない。
個人の利害から離れることができる内的平静さは、世界を的確に捉える。
知覚に支配されてない感情は、世界を無味簡素なものにするのではなく、日常見逃してしまうような、細やかな雰囲気でさえ、汲み取り、味わうことができる。
覚え書き
ここのところ私は、未熟さが際立つので、ここに、覚書を残そうと思います。
私は、出来事にはいろんな側面があると思っています。
そして人には、その中に全てがあると確信してます。
だとしたら、人生を生きていて「辛さ」や「痛み」を通して、出来事を見てしまう時、それはきっと、出来事への眼差しが間違っているところを見ているから、「悲しみ」や「痛み、時には「憎しみ」しか無いように思うのかもしれません。
なので、そのような感情に出会うことがありましたら、
「ああ、、私は、この出来事に対して、見方を間違えているのかもしれないなぁ。。」
と、思っていいいですよ。
とはいえ、出来事や自分が感じる、未熟さや、悲しみはその人にとって、現実なのですから、「そうではない。」と、否定されるのも、あまり気分の良いものではありませんね。
なので、そのような見方をしてしまうなら、それでも良いのですが、ただ、その見方によって、暖かさや、傷が癒やされることがないようでしたら、どうかその見方を否定するのではなく、その見方を「引退」されては、いかがでしょうか。
大切なことは、「痛み」や「悲しみ」という言語で書かれています。
自分の人生にそれがないと、いいな。って、思う気持ちは、理解できますが、ちょっと、考えてみて、自分がこよなく愛する人を傷つけたり、悲しみを背負わせるようにして、その大切なことを学ぶのは、随分と悲しいことではありませんか?
そう思えると、自分が痛みや悲しみを感じるのは、まんざら、ダメなことでも無いようです。そして、さらに、傷ついた人は、癒す力にも長けてゆくものです。
「償い」の雰囲気のない「罰」は、その人を固くしてしまいます。
宇宙の在り方に似た思考の力が介入しない限り、その人の心は、鎖に繋がれたようになってしまうでしょう。
それは、他人に対しても、自分に対してもそうです。
全ては、「途中」です。 決めてもいいのですが、乗り越えられることをお忘れなきよう。。。
覚え書き
何となく。 最近学んだことを、ここで共有しようと思います。
まだまだ成長して行けるものばかりなので、皆さんの中でも、飲み込むのではなく、たくさん噛んでみてあげて下さい。
「不快」からの逃走による「快」に向かう行為は、「リスク」や「不快」を超えた先にある「(包括的な)満足」に辿り着けることを、忘れさせる。
だから、「できない」ことがいけないのではないのだよ。
時間がかかったり、初めは不器用かもしれないが、自分が「できる」ということを忘れてしまうのは、あまり良くないね。
誰かの為に、何かをすることは、美しい行為ですが、自分の行為の評価を、他人に全て委ねてしまうと、どんどん正解は見えなくなってしまう。
そしてどんどん、「美しい行為」ではなく、「認められること」を目的にしてしまう。その頃には、人の目ばかりが気になってしまいます。
そうなると、もうそれは、「誰かの為」ではなく、他人を利用した「自分の為」になってします。 その行為は、、、本当に私がしたい行為ではないので、悲しいですね。。
少しばかり知っておいて欲しいのは、「その人の愛から生まれた、何かしらの努力や頑張りの評価は『結果』によって侵食されたり、支配されない。」ということです。
何かができないと、その人を馬鹿にする人は、自分の「バカさ」を否定して乗り越えようとする道しか知らないから。だったりします。
それはきっと、自分の「バカさ」否定することで、自分の中にそれがあることを忘れてしまう。という副作用があるのかもしれません。
そういったところから脱出しようと思ったら、きっと、「愚かさ」というのは、その存在ではなく、使い方にあるのではないかと、思いを巡らせるといいように思います。そうなると、「誰かをバカにする」という行為すらも、新たな命を与えられるでしょう。
その人の行為を「褒める」「認める」というのは、その人の中で、正しさへの明かりとなってくれます。 ありがちなのは、自分にとって害がないと、人は「当たり前」という雰囲気と共に、その「当たり前」に隠れてしまった「良さ」を見逃してしまいます。
その代わり、自分にとって「不快」をもたらすものばかりに関わりを持とうとしてしまいます。ある人の、私にとって都合の悪い部分ばかりを告げていると、その人は、自分の中の正しさの道に灯りを灯すことができません。
今、目の前にいるその人が、あなたにとって愛すべき人なのであれば、どうか、その人がライフを豊かにできるために、「正しさ」への明かりを灯せるよう、時折、その人の「良さ」に視線を向けて、それは素敵なものだと、褒めてあげください。
子どもが褒めて欲しがるのは、共に正しさへの明かりを灯してほしいからです。
世界や世間を変えるというのは、他人を変えることではなく、自分を変えることです。それは、見方を変える。ということだけではなく、「全体」というところへ作用する、隠れた通路なのです。
「したいこと」「したくないこと」
タイトルにあるこの対立はよく授業でも、尋ねられます。
「この二つにどのように関わったらよいか。」と、いうことですね。
どちらも、人生でよく出て来るものですし、経験もあるのですが、よく繰り返され、また、私が関わるか、関わらないか、で、その作用は変わってきます。
まずは、意識せず、流されてしまうと…
「したいこと」に流されると、快楽と堕落が私を侵食します。これは多少なりとも自分を裏切ってしまったような雰囲気に包まれます。
ちゃんと希望を見つけないと、後悔と自己嫌悪の繰り返しになってゆきます。
「したくないこと」に流されると、常に苦悩が付きまとい、世界や他人に対する疑念や不満を加速させ、最終的には、生きることを放棄させます。
ですが、どちらも「私の意識」によって、その姿を変えます。
「したいこと」は、私が意識することで、私に治癒を届けてくれます。
「したくないこと」は、私が意識することで、私を守ってくれます。
どちらにも言えることですが、私が意識的に関わることで、堕落や盲目的行為ではなく、「営み」になります。
まぁ、どちらも、「ほどほどに。」って、感じですね。
こういったことの背後には、感情、このトピックだと、「好き」「嫌い」の感情が作用してます。
ただ、これも単純ではなく、たくさん味わうことができます。
例えば、「絵を描くのは好き」だから「絵を描くことはしたいこと。」
になりますが、実は、「絵を描くこと」ではなく、「褒められること」や他人と比べて、「自慢できること」
そこに『好き』がある時があります。
もしそうだと、絵を描いていても、自分より上手い人や、自分の絵を批判されたりすると、途端に絵を描くのをやめるでしょう。
と、なったら、向き合うべきは、「褒められること」。
それらに流されないことです。侵食されないことです。
そしてまた、「勉強(仕事)は嫌い」だから「勉強(仕事)はしたくないこと。」も、よくある状況です。
これも味わいを深めると、「勉強すること」が嫌いなのではなく、「あってるとか、間違ってるとか、評価されること」が嫌いだったりします。
となったら、向き合うべきは、「相手の評価」に流されないこと。結果や評価で自分の努力や行為の全てを否定しないことです。
自分の行為と結果を断ち切って考えるのは難しいのですが、もしそれができると、不思議な行為ができます。
例えば、私は、知らないことを知るために勉強するのは好きなのですが、いい授業をするために授業の計画を念密にするのは好きではありません。
だから私は、「授業準備は嫌いです。」と、言えるでしょう。
時によっては、罰ゲーム気分になる時もあります。
ただ、この「嫌いだ」ということと、「する。しない。」を別次元のように扱います。
嫌いだからといって、しないわけではない。と、いうことです。
それはきっと、「義務」や「使命」というのかもしれません。
その行為は、私が意識して殉じる限り、私を守って、また、高めてくれます。
大人になると、自分の好き。嫌い。を極端に使いがちです。
ですが、私たち大人には、自らを意識する。という素晴らしい能力があります。それによって、未熟な私の中に、高貴な私が宿ります。(子どもには無理です。)
自らを意識して味わい、上手に扱うこと。
内的成長は、常に
「焦らず」「おごらず」「人知れず」
です。
皆様のタイミングで、ぜひ、お試しあれ!
何かありましたら、コメントくださいな。
ずっと悩んでます
最近のクラスで見つけることのできた、アイデアです。
私もそうですが、「ずっと思い悩んでる。」って、事。あります。
そのように表現される方は、クラスでも、カウンセリングでも、お会いします。
不思議に感じますが、その時、解決策やアドバイスが欲しい訳ではなく、ただ気持ちをわかって欲しい方の状態もあります。
ちなみに日常において、ついでに話される愚痴のような悩みは、ほぼほぼ、これなので、解決より、相手の気持ちに受容を注げるといいように思います。
…で、そうではなく、ある一定の期間悩み続けて、それでもどのようにしたら良いのか。また、いくら考えても、答えが見出せない時。
一度このような立場に立ってみるのはいかがでしょうか?
「繰り返してしまう悩みや、どうしたら良いのかわからない事について、考え続けてしまうのは、その悩みや考えの『核心』に出逢おうとしないから。」
「であってない。」から。ではないのです。
「出逢おうとしない。」から。なのです。
ここには随分と、分厚い紙一重がありそうです。
人によっては、痛みと辛さを運んでくる立場かもしれませんが、
「気づけること、気づくべきこと。と、いうのは、よく『痛み』や『悲しみ』という言語で書かれています。」
出口も、できることもないような迷いであれば、一度立ってみても、よい立場なのかもしれません。
勉強をすることについて
先日、高校の頃からの友人と時間を過ごしました。
彼はよく私を褒めてくれます。 そして、私の人生がどのように展開してゆくのかを、楽しみに見てくれています。
私がどのような私に変わっていったとしても、私を決して諦めないでいてくれる友人の1人です。
その時間を過ごした時、一言。
「もっと、勉強をしておけばよかった。」と、ポツリ。
「田中くんは、今でも勉強してるんよな。すごいなぁ。よく、思うんだけど、本当に自由にして、好きな事をして生きてゆけてるのは、勉強してるからなんだと思う。」
私も思ったことのない捉え方ですが。
確かに、「やりたいこと。したいことなどの目標が見つかってから勉強する。資格を取る。」
は、よくわかります。わかりやすいくらい、よくわかります。
でも、彼の言ってることは「逆」なんです。
「したいことがあるから、勉強する。」という立場に加えて、
「勉強するから、したいことに出会える。」という立場です。
この二つの立場を持てたら、それはそれは、豊かに学んでゆけるでしょう。
私たちは、困ったり、必要性に駆られて学ぶ時が多いですが、何も困ってなくて、必要性も感じないのに、ただ、面白そう。とか、ただやってみよう。とか思って体験したり、学んだりすることは、彼の言うように、「自由」や「したいこと」への栄養補給や道標になるような気がしてます。
私自身、アメリカで学んでいる時、本当に毎日、「魂や天使やらを学んで、なんの意味と価値があるの?!」と、いう感情に振り回されていました。
今は、それらをも、使いこなせるので、どんなことからも学べるし、活用できるような気持ちがあります。
世界には無駄なものはなくて、無駄にするか、しないか、だけ?
…の、ような感覚です。
子どもたちにも言えるでしょう。
「したいことに出会えるために、今は共に学びましょう♪」
そして、それをいう私も、大人になった今でも、その機会を獲得していただきたく思っています。
ストンと落ちることって、実は、あちらこちらにあるように感じています。
そうですね。 どうぞお伝えくださいな。きっと、「あちら」や「こちら」になれるような気がします♪
共に学ぶ仲間にも伝えたいです。
働きかけ
相手が大人であれ、子どもであれ、ものであれ、そしてまた、自分自身に対してであれ、私たちの中には、何にでもなれる「可能性」という性質が存在しています。
それは時には、出来事と出来事を結びつける、人生を織る糸である「思考」として。
また、肉体の知覚を通してでは認識することのできない、対象の質や雰囲気の理解を助けてくれる「感情」だったり。
基本的に何一つ決まっていない未来に対して勇気ある一歩を促す歩みを教えてくれる「意思」だったり。
可能性は、何にだってなれて、どのようにでもなり、私たちに作用するのです。
そんな中、教育においては、その可能性に、誰かが誰かに、働きかけをして、その人の可能性に方向性や価値を教えてゆきます。
それは、時には「常識」だったり、「価値観」だったり。
この「可能性」を「何か」に変貌させてゆく時、あまりにも相手に対する働きかけが、一生懸命にしているにもか変わらず、届かない時があります。
特に教育の場においては、起きることです。
この働きかけをしているにもかかわらず、うまく浸透しないとか、ともすれば、相手が怒るとかいった場合、一度立ち止まって、ある要素とともに、その教育なり、語りかけなりを行うと、その働きかけに、これまでとは違う変化が生じます。 きっとその変化は、相手にとって大切に受け止められるものになるでしょう。
その変化の為の要素とは、「感謝」です。
往々にして、必要以上に相手を変えようとしている時、相手に対して、この感謝という要素は、全くもって感じていない時が多いものです。
相手が大人であれ、子どもであれ、その人の中にあるものに「感謝」を届けつつ、働きかけをすることができれば、それはきっとお互いにとって、素敵な時間になるでしょう。
これを「理想」と、とらえる方もいるでしょう。故に、「現実」では不可能と、感じる方もいるかもしれません。
そんな悲しいことを、言わないでください。。。。
自分の可能性をとじてしまうのは、本当に悲しいことです。
今、できなくてもいいですし、今、やらなくてもいいと思います。
でも、「できない」と、自分を否定することは、今、しなくていいことのように思います。
もし仮にこれが、「理想」なのだとして、叶わないものだとしても、そこへ向けての道を歩むことで、たとえそれが、たった一歩だったとしても、その一歩は、他では得ることのできない、大切な何かを経験させてくれるはずです。
「理想」とは、元来「求める為のもの」であって、「求めた結果得られるもの」ではありませんので。
安心してください。
私たちの中に、このように立ち振る舞うことのできる可能性があるこということを、お知らせさせていただきたいと思い、日誌を書きました。
今日もいい1日でありますように…。
「らしさ」のうた
「私らしく生きる」というのは、すごく憧れる生き方です。
これは、「自分の好きなように生きる」と、同じなのですが、「私の好き勝手に生きる」くらいになってしまうと、少々、離れた感じがします。
言葉だけ見ると同じなのですが、その背後にあるものが違うからですね。
その違いが大きいほど、人生では私が行動した際、「調和」がやってきません。
「らしさ」とは、私の中を見るとあるものであり、私の周りにも存在しているものです。そうですね。。。人生という流れの中にもあるでしょうね。
きっとその全部で、「私らしさ」です。
人生では、いろんなことが起きます。私の好む、好まざるに関わらず。
多くの人が、自分にとって「受け入れ難いこと」「嫌悪感を感じること」が起きると、大変さに出会うことになるでしょう。
だって、その嫌なものを、なんとかしたい。と、思いますからね。
その対象が人間であれ出来事であれ、出来事を侵食して変えようとするでしょうね。それがたとえ人であったとしても、侵食、侵略?して、自分にとって都合の良いように、変えようとするでしょうね。
自分のことが大切なので、そのような動きになるのは、自然なのですが、自分の「らしさ」に対する働きかけや、調和を奏でる動きには、乏しいと思います。
人生は侵略と侵食を繰り返して生きてゆくこともできるのですが、私は、「らしさ」を持って調和を感じていただきたいので、余りお勧めしません。
では、「らしさ」を持って調和を奏でるとは。。。。
人生で、嫌なことがあります。それは、食事で言うと、美味しくない物を食べたような感じです。呼吸で言うと「吸う」ですね。
そしてその私の中に入ったものを瞬間的に判断するのであれば、吐き出すでしょう。そして、批難を浴びせることになると思います。
これは口の中に入ったものを、知ろうとしない人の態度です。
ただ、人の可能性には、これ以外もあって、口の中に入ったものを味わうことができます。よく噛むと言うことは、考える。と言うことです。
ここで注意することは、「考える」と「囚われる」は、違います。
コツは、自分が「絶対にそう!」と、思えることに、思考を注ぐことです。
その動きの中で、私の中に入ったものに分解が始まります。そして、少しづつですが理解ができるようになってきます。
理解が浸透すると、扱えるようになるのですね。
そうなってくると、私の中に入ってきた、「嫌なもの」は、もはや嫌な部分だけを私に主張しません。
私の中で分解され受け入れられた結果、私のどこかに対する栄養となります。そしてその栄養を使い私が、世界に対して何をするのか。
呼吸で言うと「吐く」そして、「行為する」ですね。
つまり、嫌なものに出会った時にヒントになるのは、私の中に入ってきたものが「好き」か「嫌か」が人生にとって大切なのではなくて、それを経験した私がその後どのような態度を取ったのか。が、今後の人生の栄養となります。
この状態にまで私が達した時、私は自分の行為に働きかけができることになります。こうして、私は自分の行為を世界に表現するのです。
そうですね。。。私の歌を世界に向けて歌う瞬間です。天使と共に♪
それは、これまでとこれからに広がる、自分のらしさを構築します。同時に、自分の人生の構築に参加したことにもなります。
これまでの私であれば、起きた嫌悪感を覚える出来事に対して、反応し、反抗することしか、そして不必要な感情に振り回されるしかなかったかもしれません。
ただ、今からは、私は出来事の多くの側面を味わいと共に理解し、私の糧として変貌を与え、その先に、私が愛することのできる行為を表現として、私の歌を人生で世界に向けて奏でる。
こうなってくると背後が全く変わってきますので、同じ、「私は好きなことをする」という行為に対して、世界からの「調和」が訪れます。「ハーモニー」ですね。
私も含めてそうですが、いつでもこのように私の歌を奏でられる、ことはないと思います。
でも、それでいいのです。
なぜなら、ライフは続いていますから。
私が私の歌をちゃんと歌えるように、世界はトラブルを持ってきてくれますから。
上手に歌えるようになってくると、その嫌なものでさえも、両の手を広げて、迎え入れることができます。
いい感じの「愛」ですね♪
憧れます。。。。。。
そうですね。。。私もそのように、ありたいものです。
共に学びましょうね。
すなわちそれが歌であり、世界に自分の愛の形を発信している
そのうち、上手に歌えるようになる
そして嫌な物さえ手を広げて迎え入れるようになる
そしてライフは続く
ハーモニーを奏でる方法を分かりやすく教えて頂きありがとうございます。このような学びの場があることが、本当に有難いです。嫌な物さえ手を広げて受け入れることが出来るようになる、ということが、私の究極の学びと感じています。(^^)
間違いと失敗
誰しも人生を上手に生きたいでしょう。
叶うことなら、失敗なく。
もしくは、間違えることなく。
そして仮に、失敗と間違いをする事なく生きていったとします。
そうなると、叶わないことがあって…
それは、「成長」と「可能性」との出会いです。そういった雰囲気のものとの出会いは、叶わないように思います。
なぜなら、その人は、間違えないのです。失敗しないのです。そうすると、自分に満足します。自分の人生にも変化は起こしません。
私たちは時の中で生きているので、環境や状況、年齢、そういったものは常に変化してゆきます。
そんな中、変化をしない人は、置き去りです。ある意味、大人になっても子どもです。ひょっとしたら、歳を重ねて頑固になるのは、自分の正しさを乗り越える事なく、自分の中だけで生きてきたからかもしれません。
なぜ、私たちは「失敗」と「間違い」をこんなにも嫌悪するようになったのでしょう。
簡単です。それらは「いけないこと」と、言われてきたからです。
誰もが経験があるかもしれませんが、その間違えた行為を超えて、自分自身が責められているように説教を受けて、責められてきたからです。
また、それら「失敗」や「間違い」をしたときに、笑われたり、侮辱されてきたのです。そんな恥ずかしい思いはしたくありませんから、ましてや、それによって「愛されない」と感じてしまったら、「間違い」をしないようにするどころか、「間違い」や「失敗」を絶対に認めることができなくなるでしょう。
自分だけの「正しさ」と「真実」を抱えて、誤解の人生を歩むことになるでしょう。
そうなると、せっかく人生が運んできてくれた、「失敗」や「間違い」を否定したり、避けたりするので、全く自身に対する成長と、これまでにない自分に対する秘めた可能性を諦める。または、否定することになります。
人それぞれ人生があり、そこに人それぞれの価値観があることは否定しません。
ただ、どの人も、その人が持つ「真実」。
「真実」が唯一なのは、その人にとって「のみ」だからです。
なので、それぞれの真実は、真実の一側面なのです。
ともすれば、人の数だけの真実があって、数あるそれらに包まれるように、「真実」は存在するのではないでしょうか。
何か新しい事を知る。 これまでとは違う考えが生まれる。
それによって、人間として大きくなる。
比べることや、勝ち負けを超えた本当の価値を知る。
そういったところへ行くには、「間違いに気づく」「失敗に気づく」経験はとても幸運です。
それによって、これまでとは違う自分の可能性に目を向けられますから。
間違いを責めないでください。ましてや間違いを超えて、その人まで、責めませんように。
そして、自分の間違いに気づいた人は、もう成長への一歩を踏み出しています。その失敗や間違いが物語ることに、耳を傾けてあげてください。
失敗や間違いが語る悲しみを超えたところに、あなたにとって目指すべき方向と道がお知らせされます。
ある意味これは、スピリチュアル的な徹底した想いなのですが、
「人生にはその人の幸せの為に、必要なことしか起きない。」
人生で起きる出来事が「点」ではなく、「線」になるころ、それがわかるようになります。