メニュー

クラス日誌とかきおき

2 Mar 2021

質問にお答えします。

 

動画の配信について、質問がありましたので、お答えします。


1:「動画」と「音声」の違い

 違いは、さまざまにあると思いますが、お互いに良いところを残しますね。「動画」だと、クラスの雰囲気はより掴みやすいのではないでしょうか。わたしの動きも見えますし、なんとなく黒板も見えます。

「音声」のいいところは、想像しながら、クラスを体験できることでしょうか。受け取る情報が少ない分、「受け止めよう。」の力は、増すように想像します。あとは、金額とか、ネット環境によっては、音声は、ダウンロードして持ち歩けたり。とかでしょうか。

 

2:友人に紹介してもいいですか?

 はい。かまいませんが、動画や音声を渡すことはやめてください。また、他で公開することもしないでくださいな。


3:配信は最終的に、全部で、いくつになりますか?

 わかりません。


4:「動画」をみて質問があったら、してもいいですか?

 はい。もちろんです。わたしと面識がなくても、メールや、日誌のコメント欄に、ご質問ください。すぐにとは行きませんが、3日以内には、お返事します。


5:「動画」や「音声」はいつまで購入可能ですか? 購入できなくなる時期はありますでしょうか?

 はい。 いつかは、消えて無くなります。





・・・・今の所、このような質問をいただきましたので、お答えさせていただきます。


みなさん。興味を持っていただき、ありがとうございます。










お名前:
コメント:
25 Feb 2021

人の腹の中はわからない


 誰かを信じて裏切られたり、嘘を言われて傷ついたり、想いとは違う態度を取られて、びっくりしたり、人生を生きているとそのようなことに合う事は、あります。


 その時、自分の信じた心を損なわないために、「結局、他人は他人。」とか、「人の腹ん中まではわからない。」とか、ひどく傷ついた人は、「信用するんじゃなかった。」とか、「信じたわたしがバカだった。」など。


 それでも人生を紡ぐために、自分に言い聞かせます。


 おっしゃる通り、人の心の全てはわからないでしょう。


 その理由は、人の心の中は常に動いているからです。ささやかなことでいったら、体調や天気によっても変わるかもしれません。


 常に動くその流れを切り取って、それを固めて、寄りかかることも私たちはできるのですが、それだとなかなか、人生に参加できません。

 その人や、アイデアや、状況に依存して生きないといけなくなるので。

(ま、わたしなんかは、そんな時、相手ではなく、自分の都合の良い考えに依存しているのですけれどね。)


 いずれにせよ、うまくいかなくなった時、誰かや、何かのせいにしないといけなくなります。それは、「自分に非がない。」ということを表現すると同時に、無意識的に働くのは、「自分にはできることがない」と、暗示をかけるようなものなのです。


 それだと、なかなか、人生で、「運」や「縁」をも含んだ健康的な人間関係の中で生きるのは難しいように感じます。


 今、お話ししているのは、

「そんなことをしていては、あなたはダメだ。」

 という話ではなく、

「どんな状況になっても、あなたにはできることがある。」

という話です。


信用して、裏切られても、否定を重ねられて傷ついた時も、依存に気づいて断ち切る時も、これまでの甘さに気づいて苛立ちを募らせても。(などなど)


できることはあるのです。


あと、ちょっと、遅れたのですが、人や誰かを信用する時、わたしが何を信用しているのかには、明らかになっていた方がいいです。

「その人」なのか、「その人の肩書き」なのか、「その人の考え」なのか、「都合のいい期待」なのか、「自分の利益への確信」なのか。

そこが明らかだと、何が起きても、その明らかにしたところから、発展や成長に向けて、始めることができます。


なぜなら、その時、わたしの手の中には成長に絶対必要なものを手に入れているからです。


 少し話がずれるやもしれませんが、「人脈が大事」って、よく聞きます。

ただ、、、なんでしょう。「利用できる人間を増やす」という心持ちで、この言葉を言い放つなら、どうやらわたしは、人とのつながりを大事にしている雰囲気が伝わってきません。(自分を大事にしている感は、よく伝わってきます。)


 わたしなりに、大事にしようとするのなら、自分を使ってでも大事にできるようなつながりを持ちたいと思える人を大事にします。

そうすると、そんなにたくさんの人とは繋がれません。(そんなに多くは、わたしの器では難しいです)


「人の内側は、わからない」 これは事実です。

ですが、そこに振り回されない生き方は、あります。


シンプルにいうと、どのような状況になっても、自分の可能性を忘れないこと。人生に参加できる時が来た。ということです。


皆様にとって、良いつながりが、今日も表現できますように。。。。




お名前:
コメント:
1 Feb 2021

私は最低である


時折私は、多くの偶然から物事を学びます。


実は今年に入って体の変調を感じ、検査したところ、だいぶ弱っている部分があり、治療と同時に生活習慣の改善に取り組むことになりました。


文章で書くと大ごとに見えますが、ほとんどの方がされている当たり前の生活習慣と、リズムへの努力が必要。と、言うだけのことです。


この文章を読んで、心配してくださった方。ありがとうございますね。

お気持ちは、ちゃんと、いただきます♫ そして、努力に変えますね。


そして最近、昔家庭教師をしていた生徒から、一緒に体を鍛えよう。と言うお誘いを受けました。 


いやぁ〜、世界は私のことをよく知ってます♫


と、言うわけで、体を鍛えることになり、現在、コツコツと励んでます。


ただ、びっくりするくらい私の体力がポンコツなので、自分の想いと実際の体の動きのギャップに本当に情けなくなる雰囲気に、毎回、包まれてます。


その日も、私わトレーニング中にそんな雰囲気に包まれました。

そして、ボソッと。「うわぁ、、、情けない。。。最低やな。。。」


。。。と。


すると、一緒にいたその子が、


「先生。大丈夫ですよ! 別に、いいんですよ。だって、まだ、できてはないかも。ですけど、ちゃんとやってるじゃないですか!やってるんだったら、進んでるんで、今日が最低ですよ。明日は、もう今日を超えてるんで。だから、『今日が最低』は全然いいんですよ!」


。。。。と。


なんでしょう。。。。もう、言葉もそうですが、彼の成長に涙が。。。


素敵に成長してくれたものです。


今日の自分が最低だ。と言うのを、あまりポジティブに味わうことのなかった私です。


その言葉をポジティブに変換できるのは、自分のあゆみ方。というか、私の行為がそれを変換してくれる。


今、受験をしている高校三年生の1人も、

「私は物理が致命的にできない。でもやる!そしたら、私の物理には『伸びしろ』しかない!」


。。。。と。


どの子も素敵です。 たとえ今、「今日の私が最低。」と、感じたとしても、その景色を変える力が自分にあるということ。


つい言葉にしてしまうその感情は理解できます。 


ただ、本当に、それで終わりだとは、あまり思ってほしくないです。





ある意味、私の情けなさが届けてくれた、素敵な出来事でした。





19 Jan 2021

私を否定された


私のクラスでは、様々なワークをします。その中で、自分の傾向や自分が大事にしている考えについて考え直す機会があります。


「考え直す」となると刺激は薄いのですが、「なぜ、そう考えるの?」とか、「それは、おかしいよ!」になると、言われた人は、途端に、その場や状況を、意見や考えの「勝ち負け」を決めるステージに思えてしまいます。


日常でもあることですが、「私は〇〇と思う。」に対して、「それは、おかしいよ!そんなことない!だって。。。だから!」と、なると、そこには争いが生まれてしまい、どっちがどっちを論破できるのか!の大会が始まります。


軽い戦争なのかもしれませんね。


そしてもし、(ほとんどそうかもしれませんが)勝ち負けが決まるのであれば、どちらかが「快感」を覚えて、どちらかが「悔しさ」を経験するのでしょうね。


それはね。。。わからない話ではないです。


自分の考えや傾向は、愛していれば大切なものだし、繰り返し私に浸透していれば、共感できる、自分の一部のようなものです。

そこを否定されるということは、それは傷つくことでしょう。


なので、こんな時、よく、「人の意見を否定するのはやめましょう。」

という意見があるのですが、今回は、そことは少し違った、「する側」ではなく、「された側」の時にできる認識と考えを、残したいと思います。


先ほども書いた通り、私の考えというのは、その知識に対し「愛着」があれ、「利益や有益」があれ、自分の一部のように人はおもって生きてます。

だから否定された時、自分が切り刻まれるような雰囲気に襲われるのです。


もちろんその「知識」が、自分と一体になるからこそ、その考えを表現できるし、人生に作用させることができるのも事実なのですが、気付いていただきたいのは、「私」は、その「考え」ではない。ということです。


「私」という存在は、どんなにその「考え」を愛していようが、有益であろうが、その「考え」と一体ではないのです、無意識にその考えに従う存在にならなくていいのです。


「私」という存在は、私の「考え」を大切にでき、また育み、豊かにして、適切な状況でその知識に活躍の場を与えることができる存在なのです。


だから、私の意見が否定された時、私の意見がより豊かになるチャンスだと思ってください。「これまで考えもしなかった」や「これまでそんなこと一度もしたことがない」というものは、私が「これしかない!」と思ってしまっていたり、「これが一番!これが真理!」と、思ってしまっていることの作用によって、その成長の機会を奪われてきたのです。


ですが、人生は豊かなので、その成長が止まってしまった私の考えに対して、より豊かに生まれ変わるためのチャンスを与えてくれたのです。

(瞬間的にその出来事を「否定された!」と感じるでしょうが、チャンスでもあるのです。)

あなたが大切にしてきた考えが、より包括的に、より豊かに、そしてあなたが人生でより上手に使えるようになる為に。


未熟な人は「知識」を「武器」としか思ってません。


心地よさを運ぶ時はあっても、私を常に争いの場に誘い込み、自分か相手を否定する、または敗者を生む行為に終始させます。そこでは、なかなか豊かさに出会うことはないでしょう。


私のクラスでは、この「知識の生まれ変わり」を自らの手で生み出せる機会を持てるよう活動しています。


私の成長に役立てる出来事は、日常において、時折、毒針をその表面に持っているのですが、それを取り除き、私にとって必要なものとして、受け止めることが可能になるための時間です。



なんだか、ちょっと、宣伝チックになりましたが、別に私のクラスに参加しなくても、今、ここで撒かれた種が皆さんの、それぞれの人生の中で、争いの中で咲く一輪の花のように芽吹いてくれると、いいな。


って、思います。


今日、私も、学んだことでした。





12 Jan 2021

世界は優しい



「世界は優しい」 これは、私がよく思う雰囲気です。


先日も、そうでした。。。


先日、千葉の方でお仕事をさせていただきました。こういった時期なのでリモートによる形で、お話会を開催いたしました。


実は、昨年、多くの方からリモートでの授業や配信の提案をいただきました。


ただ。。。 本当に、苦手なんです。リモート授業。


なので、全てお断りした昨年でした。


それは、私なりの雰囲気で、お断りしたことなのです。

それは、私のわがままでもあるのだと思います。


ただ、生徒さんが画面の中にいて、私が対峙した時、私の中から生徒さんが消えていなくなってしまうのです。残念なことに。これだと私は上手にお仕事ができません。。。


目の前にいてくれると、私と生徒さんの間にある空気がさまざまなものを、私に運んでくれます。私のその人に対する理解を助けてくれます♪

人間関係は相互作用があるので、その空気による動きを知ったり、確かめたりすることは、関わりの中ですごく役に立つのです。


同じリモートでも、音声だけ。または電話だと、まだズームなどよりかは全然良いです。

声だけだと、まだ、私の中に、その人がいてくれるのです。なので、その人をたくさん想いながらお話をすることができるのです。


ただ、そこに、画面に姿が現れてしまうと、私の中のその人が消えてしまうのです。これは、私の未熟さなのでしょうねぇ。。。


そういったわけで、昨年は電話以外のリモートは全てお断りしていた感じでした。


そして今年! いきなりのリモート授業が開かれました。


電子機器に疎い私のために、完璧なセッティンをしていただき。

また、私の未熟さのために、スタッフなど数人の人はその場にいてくれて。

画面を見ることなくお話ができたので、カメラの向こうにいる方達を想いながらお話ができました。


私の至らないところを全部カバーしてくれる形で、苦手なリモート授業をさせていただけました。


そこには、活躍してくれたスタッフ。機会をくれた主催者。長い時間カメラの前にいてくれた皆様。そして、この御縁を運んでくれた世界。


どれ一つ欠けても叶わなかった、苦手克服の時間でした。(いや、まだ克服には遠いな。。。)



ですが、世界は本当に優しい。。。。と、いうお話でした。


ありがとう! 皆様。



31 Dec 2020

終わるので始まるのです



ひとつ、質問です。


せっかくの年の瀬です。


私について

何を終わらせて、何を始めますか?








私はよく出来事を呼吸のようにとらえます。


はじまりと終わりは、時計によって決まるのではなく、私の意思によって決まってゆくのです。

ただちょっと、忘れてしまいそうなアイデアです。


それぞれがそれぞれに、始まりのタイミングと終わりのタイミングを決めることができます。 


どのようにして、私は、私にそうするのでしょう。


それは意思は知っているからです。


私の何かが求めているのを。

私の中で何かが生まれたのを。

私の中で何かを表現できる時が来たことを。

私の中の何かが生まれ変わったことを。


何かが生まれて、どうなったのか、それが得とか損とか、いいとか、悪いとかの話ではなく、呼吸することによって、始まりと終わりを繰り返すことによって、何かが動き育つというお話です。





そして、この時期、その活動を季節や月や太陽や星々と共に行えます。


そのようにして、自らの呼吸による作用を知れる時でもあるのです。

この時は、世界と共に自分も参加して、「終わり」と「はじまり」を決めれるのです。




なので、また、尋ねます。



あなたは何を終わらせますか?

そして

あなたは何を始めますか?
















そしてそう思ったあなたの中でその二つの考えの間に

あなたが大事にできる、意志が生まれます。


それは言葉よりも、雰囲気で感じられるものです。



21 Nov 2020

命のように理解するかな。。。


尾道で「気質」の授業をさせてもらってます。


私たちの魂に近い部分のお話で、私たちにとって親しみやすいテーマです。


ただ、「親しみやすい。」ということは、「私の枠の中で理解しやすい」ということなので、決めつけてしまいそうになります。


あぶない。 あぶない。 


そうならないように、知ったことは全ての一側面だということ。

特に、絶対感を持って何かを知ってしまった時、または、定義づける時には、その言葉の語尾に「〜かもしれない。」と添えてあげましょう。

必要な時に、美味しくいただけます♪


そしてそれは氷が水や雲になるように変化する。ということ。

ただ、その際も、それぞれの中に変わらない何かが、ちゃんとあって、ただ表現が違うだけのこと。

本質はなかなか姿を表しませんが、それは表現が多様だからです。

目に見えないものほど様々に作用するものです。時とか、光とか、重力とか。


そして、特性はいつの日か進化するということ。

成長を迎えられる人は、未熟さと至らなさからの手を決して振り払いません。そして旅立つ手を見守れます。


そしていつの日か、自分を自由に操ることができること。

そしてそれらが呪いにならないように、また巡って転生できるように、その動きは一瞬の間に宿ると知ること。

なので、明日、できるかどうかは、わからない。 

と、同時に、今日できなくとも、明日と私を放り投げなくてよい。


自分にも、大切な人を見つめる眼差しにも、大切な理解の道です。


相変わらず、誰が来るのか、何人来るのか、さっぱりですが、ご縁のある方とこの道をポツリ、ポツリと、歩きてきたいと思います。


私はいつでも扉の横にいますので、いつでもお声をかけて下さいな♪



お名前:
コメント:
8 Nov 2020

学んだこと



この度、仙酔島で、一泊二日の合宿を行いました。


何より、一番強く感じたのは、「学ぶ意思を持った人は素晴らしい」


それは、自らの限界を自らで高められる人たちです。


それはもちろん、この合宿に参加して下さった方達だけで無く、通常のクラスや、プライベートな授業。リモートで授業を受けてくださってる方、全てに言えます。


今回のクラスもペットボトルを真剣に見たり、用途不明なガラス製品を見たり、石を見たり、飛ばしたり。


日常で方法論として役立てられるものは何ひとつ無かったことでしょう。


それでも、彼ら、彼女らは、日常のあらゆる場面で自分らしさに戻れるよう、そのための学びを繰り返してくれました。


本当に、ありがたいことです。


人は、何からでも学べるのです。 本当に、そうです。


私のクラスにさん課されている方々、それだけは、自分の可能性として、知っておいて下さい。


理不尽なこと。 不必要なこと。 悲しいこと。 気持ちよくさせること。

騙されること。 同意の中、賞賛の中。 悔しさの中、情けなさの中。


全ては、私が私に戻るための言語です。安心して、経験して下さい。


最後に、ちょっと残念で、いいお知らせがあります。


次回の授業は、もっと素晴らしいものになります。 その機会には、安心して、再会にまたいらして下さいな。


本当に、ありがとうございました。


以上私がこの度の合宿で学んだこと。




「学ぶ意思のある人は、美しい。」



お名前:
コメント:
20 Sep 2020

語りながら聴きながら




私が何かにこだわりすぎることは

許すことを忘れ

私が何かに頼りすぎることは

私の力を忘れさせ

私を「ねばならない」に押し込めることは

私の自由を否定する

ゆっくりと知らないところで

繰り返されて

私が私だけのことを考える

孤独へのプロセス




私にとっての不都合さを見捨てるのではなく

私にとっての都合の良いを手放して

その不都合さと手を繋ぐ機会と儀式を

カルマ

という



私が何かに流されてきたということは

私が私の可能性を諦めてきたということ

時には

私の期待のために

時には

私の恐れのために

私は私すらもこの世から消してしまう

悲しいことではありますが

その衝動を愛せる私がいて

よかったと思ってます





私は幸福によって眠りこけ

不幸によって目覚める

あまり上手な生き方ではないが

誰にとっても傍にある自然的な生き方

それは

私が私の夢の中で目覚めるまで続く

そして何より

目覚めるために必要なのは

夢の中に入ること





誰かが私を嫌う時

それを受け入れられる強さがあると気づけば

私は

成長して行ける

私にその強さがないと決めつけてるので

私は震えて動けなくなる

誰かが嫌う私の一部は

未熟なだけであって「悪」ではない

育てられるのを

かまってもらうのを

ずっと待っていただけなのだから



正しいこと

美しいこと

そう言った行為や言葉が

あなたに必要なわけではありません

正しいと感じることや

美しいと感じることの

味わいが

あなたの人生に必要なのです

同時にあなたはそのための

楽器であり

色彩です

そしてそれを

あなたがあなたとして

奏でる瞬間

彩る瞬間

人生が「大切さ」を学ぶのです



私を困らせる問題は

全て私の中からやってくる

それは悲しいことではなく

私次第で

この世界が変わるということ

どこまでいっても

他人は変えれませんが

いつでもどこでも

一瞬で

世界を変えることはできます


やっほー♪





お名前:
コメント:
8 Sep 2020

私の願いのために


やはり、と言うか、不思議な表現になってますので、やんわりと読んでくださいな。 



お話しする内容は、


内的成長についてです。


もしくは、人間に備わっているのだけれど、眠っていて、あまり活躍できていない感覚器官の育成について。(だいぶ怪しい言葉ですが。。)

感覚とか雰囲気とか、ある意味、未来を予測する感覚器官のようなものでもあります。




そして、その成長のために、「これらは、邪魔になるよ。」と、言われる雰囲気を紹介します。 


それは、「慢心」と「懐疑心」です。


「慢心」の残念なところは、自分を常に正しいところに置きたがり、相手に自分の考えや意見を受けれてもらうことを強く求めます。それは支配と似ています。私の中にもありますが、一体感を求めて動いています。

その、一緒になりたい感は、ある意味、可愛い感じです♪


そして、「懐疑心」は、周りを一切信用しません。周りとの関係を断ち切ります。関わりを持とうとしません。それは、傷つくことも、傷つけることも不幸だと知っている、優しい感じでもあります。

それは、ある意味、美しいです。


この二つは、卵の白身と黄身のように、どちらかが核になったり、外側になったりします。「動機」と「表現」の関係性です。


また、これらはよく、話し合いや、意見を出し合う場で、私の中で目を覚まし、私の魂に作用します。どちらも私の中で強くなると、その話している内容の「真実」はまたは、「確信」はどうでも良くなります。


「慢心」はただ勝つことを目指し、傾聴を忘れ相手を攻め続け

「懐疑心」は断ち切るために盲目的に逃げて、それを他人のせいにします。


「慢心」は、「言うことを聞け。私を受け入れろ!」を叫び、

「懐疑心」は、ただただ、終わらせることを望みます。


そうなってしまう、人の弱さは、十分に理解できます。

それは「未熟」ではありますが、「悪」ではありません


私なんかはよく、そのような雰囲気で人と関わってしまった出来事の後、ふと、自分の行為に目覚めて、後になって反省します。


あ、ここで、少しお話がそれますが、私のように、後になって、立ち止まり、反省し、自分を見る時。仮にそれが、人生で何度も繰り返されていて、成長がないように感じていても、決してそんなことはないので、安心して下さいね。内的成長の道において止まることは進むことと同じくらい価値があり、それは、この後記す、解決法への種となる動きです。

そしてまた、「少しの間、立ち止まれること」それを、「歩」と、言います。だから、ちゃんと進んでるんですよ。そして、実際、漢字はそう書きますね♪  だから、安心して止まってください。


話を戻しますね。


そんなふうに、「慢心」と「懐疑心」が私の魂を支配しようとするとき、その瞬間にできる対処法があります。




それは、「謙虚さ」です。




それを活躍させれば、少しばかり、状況を健やかにできます♪ただ、「謙虚さ」は、対処法であって、解決法ではないのです。でも、確実に役には立ちます。


このことに限らず、世間には様々な問題に対する「対処法」があります。

ただ、「解決法」に至るものにはあまり注目はされていないようですね。

しかし、ここでは、ちょっと、そこに向かってみようと思います。


解決法に向かうには、自分に対する理解と癒しが必要です。

その道に進むには、少々、私にとって都合の悪いものと語らう状況がいるでしょうね。なぜ、「都合の悪いもの」なのかと言うと、「癒される存在」は往々にして「傷ついていたり、病的だったりする存在」だからです。
そして、その私に取って都合の悪い相手とは、


「私の判断」です。


判断ばかりする人は、間違いを見過ごしがちです。「私は、間違っている。と、判断する。」のも、そうです。


私は、大切な私の判断を手放せ。と、言ってるわけではありません。私の判断の為にも、もしくは、私の判断を生んだ、本懐のためにも、何かしら、私の魂が、「慢心」や「懐疑心」に支配されそうになった時、または、その後でも構いません。ポツリ。と、私の判断に声をかけてあげて下さい。


「今、私がしようとしている行為は、本当に私の願いだろうか?」


そして、その後の雰囲気を味わって下さい。それは、答えを出すための味わいではありません。 自分には様々な可能性があることを知るための味わいです。


私がお勧めするのは、実際に会議や会話の中で、生じた時より、なんでもない時に、私の判断と語らうことをお勧めします。もちろん、会話中にこのことを私に尋ねても、構いません。


ですが…、なんでもない時がベストです。

(ただ、これが今、ある考えと、存在の下に、ものすごく侵食されています。)


会話中などに、自身の「慢心」や「懐疑心」の暴走を止めるために、一旦、その話し合いの場所から離れるのは、悪いことではありません。危機を回避し、成長の扉を見つける、素晴らしい機会です。


それは、自分の判断が間違えてる。とか、あってる。かを見つける機会ではなく、今している争いや言い合いの状況は、本当に私の願ったことなのか。それを確認するための立ち止まりです。


この場合に限らず、私の願いのためにできることは、進む事ばかりではなく、立ち止まることでもある。と、知ることです。


待てること。

 
こと関わりや教育においては、大切な要素だと考えます。
みなさん。 焦らなくて大丈夫です。 みなさんが自分の歩み方で歩いていれば、必要なことは、必要な時に。できることは、あなたが一番上手にできる時に、そのタイミングがやってきますから。
安心して、止まってみて下さい。


そしてもう一つ。


「私の判断」についてですが、これは、どのような判断についても言えることですし、どのような判断についてもいえる悲劇なのですが、どのような判断であれ、「判断した」のであれば、そこには必ず「間違い」が生まれます。


全ての判断にそれは生じます。


そしてそれは、解決する問題ではなく、覚悟する問題です。


全ての私の判断に間違いが生じてしまうことは悲劇です。

ですが、全ての私の判断に間違いが生じることを覚悟するのは、希望であり、勇気です。


その勇気は、「イチカバチか」の人任せ間でもなく、「妄想的な成功」に頼るものでもなく、器の大きさと、何が起きても進んで行ける力になります。


私のライフは私のことをよく知っていて、私に優しいので、そのようなことを、よく日常で出会わせてくれます。


感謝と、申し訳なさを感じます。



今回も、質問や、不思議なところがあれば、コメントやメールをくださいな。


私で役に立てるようなら、活躍したいと思います。


読んでいただき、ありがとうございました。









お名前:
コメント:
16 Aug 2020

子育てにおいて


どうやったら、子どもは、勉強するようになりますか?


どうやったら、子どもはいうことを聞きますか?


どうやったら、子どもは学校に行きますか?


どうやったら、子どもは落ち着きますか?


それらに対し、いろんな方法や、アプローチ、教育法がありますが、シンプルに、


毎日、愛してあげればいい。


だから。。。。。


誰かが決めた、テストや常識で彼らをジャッジしなくていいですよ。

それによって、彼らの不幸な未来を決めつけなくてもいいですよ。


彼らの笑顔のために、たとえ勉強やスポーツができなくとも、立派でなくとも、「私は、あなたが大好きだ。」ということを、何度も知らせてあげたらいい♪ 


これを綺麗事という人もいるでしょう。 難しいと感じる人もいるでしょう。 当然です。そんな時もあります。


でも、今日、もしくは今、私自身にも、ジャッジをすることなく、その時、その時で、自分を思い出してあげてください。


何があっても、あなたは、あなた自身と、愛するその子を諦めなくていいことを。。。



そして、勇気を出して決断したその日は、必ずあなたの記念日になります。



4 Aug 2020

内的成長のきっかけにはなっても、成長にはいらないもの?



内的成長。もしくは、人間に備わっているのだけれど、活躍できていない感覚器官の育成について、(だいぶ怪しい言葉ですが。。)「その成長のために、これらは、邪魔になるよ。」と、言われる雰囲気があります。 


それは、「慢心」と「懐疑心」です。


「慢心」の残念なところは、自分を常に正しいところに置きたがり、相手に自分の考えや意見を受けれてもらうことを強く求めます。なぜなら、それは支配と似ているから。少し動いてみてみると、一体感を求めてる。とも言えます。結構、可愛い感じです♪


そして、「懐疑心」は、周りを一切信用しません。周りとの関係を断ち切ります。関わりを持とうとしません。それは、傷つくことも、傷つけることも不幸だと知っている、優しい感じでもあります。


この二つは、卵の白身と黄身のように、どちらかが核になったり、外側になったりします。(ひょっとしたら、相手や状況によって変わるのかもしれませんね。)


また、これらはよく、話し合いや、意見を出し合う場で、私の魂に作用し、どちらも強くなると、その話している内容の「真実」はまたは、「確信」はどうでも良くなります。

そもそも、意見を出し合う場は、まとめるにせよ探るにせよ、核心へ近づくことが大事で、その為のオールが様々な意見だったりするんですけどね。

言ってみれば、それぞれが、同じ船に乗っているのに、それぞれが、自分のオールと人のオールを比べ始め、破壊してみたり、放り投げたりし始める感じです。だいぶ滑稽で、悲しいですが、船を漕ぎ出す前なので、こんな風に皆さん必死になってしまうのでしょうね。

船を漕ぐのは「オール」ではなく「力」何ですけどね。。。


「慢心」は、「言うことを聞け。私を受け入れろ!」を叫び、「懐疑心」は、ただただ、終わらせることを望みます。


そうなってしまう、人の弱さは、十分に理解できます。私なんかはよく、出来事の後になって反省します。

あ、ここで、少しお話がそれますが、私のように、後になって、立ち止まり、反省し、自分を見る時。それは、繰り返されていて、成長がないように感じていても、決してそんなことはないので、安心して下さい。

内的成長の道において止まることは進むことと同じくらい価値があり、「少しの間、立ち止まれること」それは停滞とは言いません。それは、「歩いている」と、言います。そして、実際、漢字はそう書きますね♪ 
戻しますね。


そんなふうに、「慢心」と「懐疑心」が私の魂を支配しようとするとき、対処法があります。

それは、「謙虚さ」です。

それを活躍させれば、少しばかり、状況を健やかにできます♪ただ、「謙虚さ」は、対処法であって、解決法ではないのです。でも、確実に役には立ちます。


解決法に向かうには、自分に対する理解と癒しが必要です。その道に進むには、少々、私にとって都合の悪いものと語らう状況がいるでしょうね。
その私に取って都合の悪い相手とは、「私の判断」です。判断ばかりする人は、間違いを見過ごしがちです。「間違いと、判断する。」も、そうです。


大切な私の判断を手放せ。と、言ってるわけではありません。私の判断の為にも、もしくは、私の判断から生まれた期待のためにも、何かしら、私の魂が、「慢心」や「懐疑心」に支配されそうになった時、または、その後でも構いません。ポツリ。と、自分に声をかけてあげて下さい。


「今、私がしようとしている行為は、本当に私の願いだろうか?」


そして、その後の雰囲気を味わって下さい。それは、答えを出すための味わいではありません。 自分を知るための味わいです。そのために、一旦、その話し合いの場所から離れるのは、悪いことではありません。危機を回避し、成長の扉を見つける、素晴らしい機会です。


自分の判断が間違えてる。とか、あってる。とかの話ではなく、私の願いのためにできることは、進む事ばかりではなく、立ち止まることでもある。と、知ることです。


待てること。

そして加えるなら、相手の話を聞くこと。

黙って聞くことは、次に、または、いつの日かやってくる自分の言葉を表現する際の貴重な肥やしになります。

 
人との関わりにおいて、また、教育においては、大切な要素だと考えます。
みなさん。 誰かと意見を交換する時、焦らなくて大丈夫です。

みなさんが自分の歩み方で歩いていれば、必要なことは、必要な時に。

できることは、あなたが一番上手にできる時に、そのタイミングがやってきますから。
安心して、止まってみて下さい。


それでは、また、いつかの再会を楽しみにしております。





ページ:1 - 2 - 3 - 4 - 5 - 6 - 7 - 8