クラス日誌とかきおき
「愛の居場所」
「愛する」とは、どういうことなのか? どういう風にすることが「愛していること」になるのか?
それは、決めなくていいことなのです。
なぜなら、その時々で、愛は変化できますから。
そして、それが、その時できる、今できる、あなたの愛ですから。
ただ、それが、愛であれば、「愛」は、私のとった行為の「理由」や「言い訳」にはなりません。
特定の結果を狙った、武器でもありません。
「愛」が「理由」や「言い訳」、「戦略」の役割を演じなければならなくなった時、そこには、「愛」ではなく、「愛されたい」があるはずです。
とは言え、お気持ちは分かります。 「愛されたい」は心根から湧くものです。 ですが、だからといって、あなたが、「愛せない」わけではないのです。
あなたは、あなたが憧れる、「愛されたい人」を支えることのできる、その愛されたい人が何よりも大切に思う、「愛する人」にいつでもなれるのです。あなたの歌で、あなたの名の下に。
その可能性は、忘れないでくださいね。
「少しの書き置き」
友達や、大切な人と、言い争いになるのは、その人の役に立ちたいと思い過ぎることが、わたしの意見を押し通してしまう、わがままになる時があるから。
「やさしさ」や「正しさ」は、自分の中に葛藤がある時ほど、自分の中で活躍できる。
自分に挑戦することが、内的な成長の道になるが、寂しさをごまかしたり、怒りを抑えたりすることを意味してなく、その発生の謎を自分の中に見つける事、そこから成長へのきっかけがつかめる。けっして、「自分が悪い」という逃避の話ではない。
イライラしているのは、自分が恵まれている事を数える事で、その支配から逃れられる。 そして、そうして気づいた「恵み」の方が、イライラを発生させた内容より、大切だとちゃんとわかる。
何か一つが、はっきりと相手の中に見えても、それ以外の側面がない。という根拠にはならない。 しかし、あなたがそう決める事で、その人のそれ以外の側面の可能性は消滅する。
完全なる「愛」と「自由」は、なにおも否定しない。
「他人を変えることはできませんが…」
不思議なことに、他人を変える事はできません。大切な人がいたり、自分の心に傷を見つけた人には少し痛い意見だと思います。
ただ、他人は難しいのですが、世界を変える事はできます。
少なからず、私のライフを通しても、感じられる事です。
「今」という場所は、そんな素敵な場所です。過去を学んで、明日に備える場所です。
そんな日々の今の中で、私の頭に浮かんだ「アイデア」を「素敵」と魂が名付けたら、それを世界に表現するために自分を「使う」ことのできる、「今」という場所。
すごく偉大で、すごく難しく、すごくやさしいことです。
大きなアイデア出なくていい様に思います。
叶う様であれば、数秒で可能で、その場でできることがおススメです。コップを洗うとか、靴を揃えるとか。ゴミを拾うとか。
きっと、ある人にってはそのために動き出す一瞬に、勇気や意思が必要でしょう。
もしあなたがそうなら、あなたは、その「今」の時、自由さと、勇気を獲得できる機会に恵まれています。
そしてその恵みをどう扱うかも、あなた次第です。
自分の行為の結果に不安があるなら、行為した後の結果は世界に向けて、手放してあげるといいです。
そして世界がどの様に変わるのか眺めていましょう。未来を決めつける必要はありません。 心配のほとんどは、まだ起きてないことのはずです。
「それが何になるのか?」「世界がどう変わるのか?」と、気になる人は、1つ大切なことを思い出しましょう。
世界は、もう、あなたの手で変わった。と、いう事を…。
「した」のであれば、「しなかった」世界とは明らかに違うはずです。その世界の変化にあなたの素敵だと思うことが織り込まれているのです。
そしてまた、眺めていましょう。 また、再び素敵だと思えるアイデアとの出会いがあるかもしれないので…。
「想像力と「妄想力」
人が持つ未来に向けての力の一つに「想像力」というものがある。 それは、記憶と強く結びつくことで、記憶の奴隷となり、それにより「想像力」ではなく「妄想力」になる。
それは、わたしの中で物質のように存在するので、絶対感を感じさせ、わたしはそれにより、右往左往する。
不思議なことに、この右往左往でわたしは困るのだが、基本その背後でも、わたしはわたしのことを幸せにしようと頑張っているのです。
その右往左往の一つに「逃げる」という行為があります。 わたしは人生の経験としても、内的成長にとっても、逃げることを認識するのは大切なことだと思ってますし、反対もしないのですが、この行為が無意識に繰り返される事により、「逃げる事」と、「目を背ける事」が一緒になってしまいます。
そうなってしまうと、「辛いところから逃げたはずなのに、より辛くなる。」と、いうことはよく起こります。
どのような事柄にも、私たちを育んでくれる何かがそこにあります。それは、右往左往中もそうで、その中にも、いや、その中であるからこそ、わたしが向き合うべき何かが存在しているのです。
逃げたくなる時、わたしが何から目を背けようとしているのか、まずはその認識から始まり、対話を経て、わたしの行為を決める。
このプロセスは人生丸々をかけて行ったとしても、良いくらいの時間を必要とします。
なので、その渦中にいる人。 少しづつ、自分の逃げる行為と、目を背ける行為を分けてみては?
そして、その渦中の周りにいる人。「許すこと」「見守る事」がその人に向けての育みになります。 自分が、その人を大事にしたいと思ったなら、そんなことも、自分にはできるのだと、思い出してください。
私のクラスは、よく、授業が終わった後、「結局何だったのか、よくわからない。」と、言われます。
そうですね…。
私から特定の答えを得ようとしているのであれば、そうも言えると思います。
ただ…、答えをもらうクラスなのではなく、答えを様々な状況下で、見つけられる自分へ向けてのクラスなのであったとしたら…。
なのでクラスは、様々な状況に備えて、答えを準備すること。とも違います。
私を私として存在させることのできる雰囲気を自分で生み出すことができる。
可能性と自由に関わりながら。
私を、私が愛する行為のために、私を使うことができる。
世界とか、人生とかのオーケストラにあなたの歌声や音色が織り込まれる瞬間です。
そしたら…。
そのあとに生じる「結果」に穏やかな眼差しで「ああ。そうかぁ…。」と、言いながら、また、私と世界の不思議さを、紐解いて行けるでしょう。
結果で生じるであろう、同意や、称賛で酔ってしまったり、批難や、文句に打ちのめされたり、不必要に荒々しさを呼び起こされたり。する代わりに。
その点でいうと、間違いなく私も、学徒です。
願わくば、不可視の領域で出会った知識からの「理解力」を結果の領域で生じたものへの、拒絶のためではなく、「抱擁」への力強さにも使える自分に、ゆっくりと出会って行く、神秘学徒でありたいと思っています。
「気づき」「意識」「祈り」
「気づく」ということは、きっとその人のそれまでの、人生に対する偏りを、知らせてくれるでしょう。
ただ、その気づきへのきっかけが、世界によるものならば、トラブルという出会いかもしれないし、予想外と、呼ばれる出会いかもしれません。
いずれにせよ。世界は優しいので、私は、安心して、その「気づき」の中で、「痛み」や「辛さ」を感じ、それらをゆっくりと味わえるように、私に浸透してゆき、いつかその痛みは、「良心」へと生まれ変わるでしょう。
良い心とは、痛みを知っているし、辛さも抱えている。
だから、きっと優しい。
お伝えしたいことは、そういった、後にはっきりと意味を持つものが、一見その片鱗も感じさせない物の中にもあるということです。
種の中に、花の可能性が潜んでいるように…。
外側の殻には、「無駄」と書いてあり、その核には「価値」がある感じです。
そして、その本質は完全に決まっているようなのですが、それであるがゆえ、それに出会い、それを持つ人間は絶対的に自由です。
「完全なる本質」があるからこその「無限なる自由。」
その核に出会うための道具は、私たちの意識です。
日々、クラスの中で、私は生徒さんにその片鱗を感じます。
人生から「痛み」や、「辛さ」をもらった時、これまでの自分の行為に、「無駄」や、「意味のなさ」、または、自分の中に「不必要なもの」や「未熟さ」を見ることはあるでしょう。そういったものも、きっとあるのですが…
具体的には…
私の中にある物に、「無駄」な時期はあるのでしょう。
私の中にある者に、「未熟」な時期はあるのでしょう。
…なので。
私の中にあるもの全てに、いつか「変化」はきっと起こるのでしょう。
そういった変化をもたらす、心の中の時の砂は、私たちの意識によってその流れを変えます。
その意識の変化を、何かの流れに委ねるわけではなく、何かの流れとともに、その流れに参加して、人生の荒波を緩やかに乗りこなし、変化を迎え感謝する。
本当の何かに気づいた時、その人は、両手を合わせたくなるでしょう。
そして、それは、私と世界に向けて届けられることでしょう。
誰かのためでも、何かのためでも、自分のためでも、目的のない「祈り」。
「感謝」です。
日常でも、きっと奏でられる時はあるかと思います。大きさは、あれど、「あなたらしさ」という、美しさは込められるでしょう。
その瞬間、あなたにしかできない、あなたの祈りなのだと思います。
素敵な「祈り」に今日も出会えますように…。
結構「なんてことない」ことなのです。
あるお店で、本を読んでいる時、風がやってきたかと思うと、少し離れた方のお店に置いてある紙のナプキンが、ふわっと、舞いました。
そして、舞うように落ちて、このように着地。 一部始終を見た私は、この出来事を「奇跡的」と呼べる。 しかし、後になって気づいた人は、単にこのナプキンを拾って、くしゃっと丸める。
奇跡って、瞬間的な時間に生きているのかもしれない。いつだったか、宇宙は誕生して137億年でしたっけ? 経つらしいですが、宇宙が生まれるその瞬間(1秒)に発生した出来事のほうが、その後の何億年よりも、膨大に生まれたものは、多いそうです。
ふと、思うと、地球が生まれたのも、そこに人類が生まれたのも、奇跡的ですね。 ある人が、そのように振舞ってくれること。 そのようにいてくれること。存在するものが全て誕生を経験するのなら、全ては奇跡的なのでしょうね。 瞬間の中にも、それは輝けるのかもしれません。
「本当の自分になる」とは、「本当の自分に帰る」ということでもあることを知っておいてください。
愛してもらうために、担わないといけなかった重荷があるのでしょう。
自分を守るために、他人と自分に向けないといけなかった刃があったのでしょう。
同じ悲しみを受けないために、あきらめた「自分らしさ」もあるかもしれません。
ですが、あなたの中にあるもので消えてしまっていいものなどないのです。
消し去ろうとした、自分の一部は、ただ「至らない」だけだったり、「未熟」なだけだったり、また、「適さない」だけだったりします。
私の中にあるものが、そのような不適切さを表現するのは、自分の中にあるものを、自分が上手に扱えないからです。
ですが、「扱おう」と、頑なに思うことに、落とし穴があります。それが強まると、「ねばならない」という、刃物が埋まった、落とし穴になってしまいます。
しかし、自分を上手に扱おうとする時、その頑なさとは、違う道があります。
それは、自分の様々を知りながら、「ああそうか。」と、知ってゆくだけの道です。
本当に、それだけでいいのです。
そう思えない人は、隠された見えない自分の力を過小評価しているとも言えます。
あたるべき場所に光を当てるために…。そして、教え、育めるように。
「ああ…そうか。」が、
「らしさ」を育み、自分を上手に扱えるようになるための、「いい感じ」です。
「『学ぶ』ということは」
知っておいてください…。
自分を知ることは、許すことにつながり。
自分の中の至らなさを理想によって処刑せず、その存在を許された時、未熟さは成熟への道を歩み始めます。
それはたどり着くための道ではなく、「旅」のための道です。
何に出逢って、何を感じるのか、それは、わかりません。
ただ、皆さんは、「何かを学ぶ自分」ではなく、「何からでも学ぶ自分」への旅を始めたのです。
理解できないものの手を取り
体の声を聞きながら
静寂の中で語る心地よい魂の語りに眠ることなく
目の前に広がるカオスに眼差しを向け
調律の中で、無駄な音は無いと知り
私が描く自由を世界で「らしく」唄おう。
これは私からの応援歌です♬
「痛み」や「辛さ」の話です。
人との関わりの中で、傷つくことは、たくさんあるでしょう。
心無い言葉や、痛烈な物言い、あるいは、無視というような行為に、衝撃を受けるような出来事も、人生においては、あるように思います。
そして、それは、私の中に、「痛み」や、「辛さ」時には、「憎しみ」や、「腹立たしさ」を生じさせるでしょう。
そうなんですよね…。
「生じる」んですよね。
「やってくる」のではなくて。
完治は無理かもしれません。全てを自身で賄うこともしなくていいと思います。
ただ、仮に、そういったものが、自身の中で生じたものなら、自身による関わりができる範囲もきっとあるように思います。
「謝ってくれない。」「謝りなさい!」という言葉を言い放たないといけない痛みがその人の中にあることも理解できます。
でも、だからと言って、自分の中に生じたものに、自分の働きかけが無関心でいい。という根拠にはならないように思います。
時間が、そのきっかけをくれることもありますが、自身の力でそれを発動させることができることも、知っておいてほしいと思います。
少し、手厳しく感じるかもしれませんが、こんなお話を書きます。
ある人がツルハシを持ってやってきて、私の大地に意味もなく、突然、突き立てました。
それはそれは、酷い音で、その大地からは、血の色に似た水がにじみ出てきます。
私は、腹を立て、その人からツルハシを取り上げました。
そしてよく見ると、そのツルハシには、私の名前が書いてありました。
そのあと、私はそのツルハシで…
このお話の続き。。。私この後、私はどうするのでしょう…
人の中にあるもの。
『結果に左右されない熱を持つ意思。
私の熱に何度も答える叡智の輝き。
受け入れること。届けることで生まれる力。
成功と失敗を繰り返し、それらを経て生まれる役割という名の形。
バラバラになったことで未熟になった私の中にいる一人一人の私。
そんなバラバラで未熟な私たちを、決して諦めない愛。
そして、それぞれの「らしさ」をもとに奏でられる世界との調和。
そしてそのお終りには、悪を救済する自由さ。』
こうして書いてみると、これは「人の中にあるもの」であると、同時に、「人の表現できるもの。」でもあるのでしょうね。
最後は、「自由さ」なので、そこには当然、義務はないのでしょうね。
「欲」があるということは、悪いことではない。 きっとそれは自分の可能性に気づいている。ということでもあるのだと思う。
ただ、そのせっかく感じた自分の可能性に対して、努力してないのは、もったいないように感じる。
そして、少し厄介なのが、その努力の方法が自分の「欲」を満たすための道ではなかったりもする。 それは、目標にしている塔を見つめながら、自分の歩んでる道を見ないで、その塔ばかりを見て、たどり着けない迷い人に似ている。
「欲」とは、粗雑に出た自分の「願い」のようなものでしょう。
それを「願い」に戻せるように…。 より純化された「欲」として、もはや「願い」や「祈り」として、むしろそのために動けるように…。
そのようになれた時、きっとその人は、憧れていた塔で「自分が何をしたのかったのか。」を愛せるようになるでしょう。
人生にとって大切なことや大事な事は、その中にめんどくさい側面をもっているものだ。
自分の力を示すのに他人が必要などというのは、たかが知れてる。