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クラス日誌とかきおき

26 Apr 2020

空白



瞑想をし始めて、しばらく経ちます。


よく、「なんの意味があるの?」とか、「したらどうなるの?」と聞かれます。


それがわからないんですよね。


決めてない。の方が、近いように思います。


どこかで、「禅」の考え方に、「無駄をなくす」と言う大切な考えがあると、聞いたことがあります。


それはきっと、「無駄をなくして、有益を得る。」と言う意味合いもあるでしょう。


ただ、わたしがそれ以外に出会えたのが


「空白に『無駄』と名付けない」 と言う考え。


文章にも、一番伝えたい部分は、文と文との間にある「行間」だと聞いたことがある。


音楽も、「無音部分」や「休符」をどう表現するかで、音のある部分の表現が変わると思う。


会話や漫才でも「間」が大切だと言われています。


庭園や写真、絵画も、そういった空間や空白をどう活かすか。

一見無駄に感じる、無意味に見える「空白」に何もない空間に、どんな意味合いを持たせるか。命や価値を見つけるか。


それらを見つけたり出会うことで

名付けられた「空白」と、そこに在るものとの間に調和が生まれる。


そしてそれが日々変われる。 


なんにも「無い」空白がそこに「在る」という矛盾。 

そしてそれが変化できるという「成長」


それは「自由」にとてもよく似ています。


わたしのライフにも皆さんのライフにもちゃんと「空白」や、まだ何にもなっていない、名づけられていない「空間」が在ると思います。


自由で在るので、どのようにもなれるし、どのようにも名付けられる。


それを好きな時に、好きなように…。

決めたそれすらも、変化させることのできる存在。 


それが、「わたし」です。



今日は、「空白」について、このような考えでいようと思います。











29 Mar 2020
Beautiful
Beautiful

この子は


この子は、この日から一週間の間で、子どもに倒され、わたしの不注意で滑り落ち、3秒ほど起こった地震でまた、崩れ落ちます。

そして、その度に、わたしが石を積むことを力強くしてくれます。


様々なことで、バランスを失う時があります。 


自分も含め、ちょこっと誰かを恨んだりもします。 


ただその度に、わたしは立て直せてます。

何度倒されようが、「わたしにはできることがある。」と、思い出させてくれます。


だから、いかなる理由で倒れたり、崩されたりしようが、笑顔で、「だいじょうぶ。何度だってできるから。」って、不幸に対して微笑んでみようと思います。


仲良くなろうとは思いませんが、煩わしく、また、恨むことも、そして、立ち尽くす事も減るように思います。




21 Mar 2020

覚書

自身の内面で向き合っていないものは、他人を通して向き合うことになる。


全ては何かになろうとする途中である。


叡智は未熟と出会うことで初めてその力を発揮できる。


私が誰かをこれまでの誰かと比較して、その人のことを知ろうとすると、その人のことではなく、私の決めつけで知ることになる。(私がそうしていると気づかないままに。)

なので、私は誰かを知ろうとする時に、その人以外の誰かとの比較を使わないで、知ってゆこうとおもう。

その道をきっと、積極的受容という。

もっと好きな言葉で言うと、「どこまでも、わかろうとすること」

19 Mar 2020

覚書


「過ち」は隠してしまうと、その人の中でウィルスのように存在します。

でも、明らかにすることで「過ち」はその日から「メッセージ」のようにも存在できます。

そして、「明らかにする」とは、告白でもあり、受容でもあり、理解でもあります。

そこを経ると「誤ち」の機会は減るでしょう。

19 Mar 2020

味覚について

先日。味覚の授業をさせていただきました。


私たちは何かを食べて生きています。何かを口にすると、いろんな味がやってきます。

甘さは、よくわたしを眠らせ、酸っぱさは私たちを動かし、辛さは闘争心を掻き立てたり、苦味は自我無しに受け入れることは難しい。


甘い誘惑や、苦い経験、甘酸っぱい青春など。 よくわかる雰囲気です。


それらは何も食べ物についてだけの話ではなく、人生や日々の生活の中で「何か」や「誰か」に出会った時、出会う印象。知った事柄と似ていいます。

ただそれらは、口に入れてすぐにやってくる味と、咀嚼(そしゃく)することで味が変わってゆくように、物事や誰かの人となりにおいても、関わってゆく中で、すぐわかる事とゆっくりわかる事の違いのようです。


そして噛む毎に溶けてゆき、消化されるときには、もうそれはまるでわたしと一体のようです。


そしてその一体となったものが、こんどは「わたし」の為のエネルギーになってくれます。(まぁ。操られる要因でもあったりもするのかな)


わたしはそのエネルギーで、何をするのでしょう。

わたしが誰かと握手するとき、わたしが味わって、食してきたどれだけの存在がその動きに協力してくれているか。。。うれしさが湧きます。

誰かを責めるとき、乱暴に関わるとき、わたしが食べたもの、わたしが出会ってきてわたしの一部となったものは、(知識やアイデアも)本当にその為に使われていいものなのだろうか?。。。 疑問が湧きます。


真反対の動きですが、いずれも、「わたしのため」という要因の為に働いてくれているようです。 どのような形であれ、ありがたいことです。


一方、体に良くない食べ物もあります。 体を破壊したり、中毒に導いたり、個人的な事だとアレルギーも、そうかもしれません。それらはよく、食したその人から「らしさ」を奪う感じです。


私たちはそれらを拒絶することもできますが、意識して上手に付き合うこともできます。 どうやらそれらは、それらの存在より、それらの存在との関わり方。例えば量とか頻度とかに問題があるのかもしれません。

「問題がある。」と、言うことは、「障害がある。」と言う表現だけでなく、その人の人生にとって、人生を上手に歩く「ヒント」でもある。とも言えて…

つまり、「だからいつもそこには、私を狂わせる問題がある。」というのと、「だからいつもそこには、私の人生のヒントがある。」とも言えるのです。


大切なのは、やってきた事柄に支配されるだけでなく、出来ることが潜んでいることに気付けることです。


また、「出来事」と「食べ物」と同じような眼差しで見ると、実は、出会う事柄は向こうからやってくるだけでなく、私たちが食べに行ってるのかもしれませんね。

でもそれは、悲しんだり、楽しんだりしてもいいのですが、操ろうとはしなくていいようにおもいます。フワッと世界に任せていいことで…。


ただ、私の中に入ってきたら、出来ることはたくさんあります。

その時、やってきた味に驚くこともあるでしょう。吐き出す時があってもいいとおもいます。(どうするかは、私が決めていいことなのです。)

ただ、噛み続けること(関わり続けること)で、味わいは変わってきます。(気づきがやってきます。)


そこにはきっと、いつかの私のためのエネルギーが潜んでいます。

それを吸収し、いつかの大切な状況で、自分の「いいな。」って思えることに使えるのです。


最後に、「意識と食」に関するちょっとした日常でできるワークなのですが、食べている時、「この一口は私にとって本当に必要か不必要か?」

って、尋ねてみてあげて下さい。


そして、そのとき湧いてきた感情を知ってあげて下さい。

決して、食べないためのワークではありません。注意して下さいね。

私に光を当てるきっかけ位のものです。


最後に、いつかそこで密かに(無意識的に)働きながら作用する臭覚についても、お話しできたらとおもいます。


少し長くなりましたね。。。。 おつかれさまでした。😊 


6 Mar 2020

時折思い出す「愛」の定義

もう10年以上前になるでしょうか。

幽霊が見える子に、天上的な眼を閉じてもらう時に、関わった際。


彼が、愛の意味を親しみのある言葉で表現してくれました。




「『愛してる。』って、どういう意味か、わかってる?」

「うん。知ってる。」

「どういう意味?」

「えーっとね。。。。『ごめんね、』『うん。いいよ。大丈夫。ちゃんとわかってるから。』って、いうこと。」





…いつ思い出しても、申し分ない答えのように思います。


この、愛の意味が「ごめんね。」から、始まるところがいい。

「愛」が活躍できる時って、そう言った時なんだと思う。

素敵なものであったとしても、決して、ばら撒いていいものではないように思う。


植物に対するお水のように、必要な時に必要な分だけ。


そんな雰囲気でいいのかもしれない。


皆さんの人生にもきっと、思い出す事で、その日が豊かに感じるような、誰かとの会話ってあると思います。


少しわたしのわがままですが、ここでの会話も、そのような雰囲気になれると幸いです。













19 Feb 2020

覚書


褒めること。感謝を伝えることは、相手に自らの弱さに立ち向かう応援歌となる。

責める事は、相手に「あなたは無力だ」と、暗示をかけることになる。



11 Feb 2020

覚書

わたしにとって平和とは、あまり戦争と違いがない。戦いの場所が違うだけのように思う。


「うまくいかない。」が、人生によくやってくるのは、世界の半分が、そうだから。

「わかっていること」「わからないこと」世界はこのように分けられる。

 何かが、ものすごくよく解る事で、わからない事は増えてゆく。 

 強く「わからない」を唱えてしまうのは、「何か」が、手放せないくらい、強く「わかってしまう」から。それは、「大切」で、それを否定されたくないから。壊されたくないから。「わからない」を貫いてしまう。


自分のわかっている。から自由になれるために、わたしに「『うまくいかない』の衣を着た『わからない』」がやってくる。でも、それは、再生のきっかけに似ている。


「弱さ」や「至らなさ」は逃げるためではなく、見据えるために存在している。そこには、自分の人生を生きる上での成長のコツが隠れている。


人を見下すことしかしない人は、いつまで経っても、自分の至らなさを見つけることができない。 


そうなると、成長は起こせない。


「過ち」は隠すことでウィルスのようになるが、認めることで、これまでの自分から未来の自分に向けてのメッセージになる。



9 Feb 2020

クラスの振り返り


クラスは、「何からでも学べる自分」という要素を大切に育んでいます。 この度も、生徒さんたちは上手に学んでくれました。


「絶対!」という言葉は、その意味合いでも、気持ちの表現でもあるのですが、頭で思おうが、心で叫ぼうが、今回の石との関わりにおいて、最初に叫ばれた「絶対に無理!」という言葉と作用を、簡単に石は覆してくれました。


過程において、私たちの持つ自分の中の信頼を基に、また、特別な一点を感じようとする感覚の力を保ちつつ、石と共にその言葉を乗り越えてくれました。


繰り返される石が崩れる瞬間に、「この石はダメですね。」と、出てしまう言葉に、「石がダメなのか、自分がダメなのか」と、その問いが生まれることの逞しさ。


たった一点を目指す上において、繰り返される失敗の中に次につながる導きがある事。最終的にその道は、たくさんの失敗が教えてくれる。特別なたった一点への歩み。

繰り返される失敗の道を歩んでゆく最良のパートナーが「信頼」であること。


ただ、「石を積む」という行為の中でそれぞれに、そして、様々に学んでいただけたこと。大変嬉しく思っています。


「日常生活の中で、過去や未来に私が彷徨ってしまうことはよくあるのですが、この度の石のワークで、『私が今、ここにあり。』と、心が感じる時間が持てました。」


と、お知らせいただいた事は、私にとっても、クラス全体が、私にとって、そうであると気付ける良いお知らせでした。


誰かに伝えるとしたら、「石を積んで、崩れて、また積んだ。」だけのこと。 言葉にしたら随分と薄くなりますが、きっとそこには、「分厚い紙一重」が存在しているように感じます。


また、次の機会に皆様と学べることを楽しみにしております。




1 Feb 2020

覚書


「悩み」のいいところは、考えさせてくれる事。

「答え」の残念なところは、考えなくてよくなる事。

そんなに焦って、答えを絞り出さなくてもいいように思います。



どんな知識もそれを尊敬できた人が、その知識を上手に使いこなせる人になるのだと思います。

そして、自分が大事に思っている事は、言葉よりも、人柄を通して表現してゆきたい。




どのような道であれ、その道を真剣に歩む人にとっては、「障害」なんて存在しないのかもしれない。



30 Jan 2020
はなまる
はなまる

子どもと動物


動物には「自我」がまだありません。

だから、周りに対する境界線も人に比べて薄いです。

周りの全部が自分のようです

そしてご主人様を見る事は、一番自分が自分だと思える時です






目の前にいろんなご主人様が現れます

笑ってる

泣いてる

落ち着いている

迷っている

意地悪な時

優しい時

全部を自分のことのように見つめます


ただ見つめます

 それを「良い」とか「悪い」とか、ジャッジはしません。


ただ、知りたい。 

わたしにどんな可能性があるのか


まっすぐに ただ まっすぐに


全てを受け入れるまなざしで。


純粋に「知る」とは、判断や評価や思い込みから完全に自由な状況で行われます。



 …そして、実は子どもたちも同じようなところにいます。



27 Jan 2020

手と足がしてること


「早い」という事はいいことでもある。 「早くできる。」「早く解決する。」「早くわかる。」


ただ…そこできっと置き去りにされるのが、「あじわう」


物事って、きっと、すぐにわかる部分と、すぐにはわからない部分があるように思う。

頭と近くで関わると、

頭はすぐにわかろうとする

だからすぐに決めようと、決めつけようとしちゃう。


手と足は、ちがう

間違いと、味わいを、繰り返し、そして繰り返しをを超えた場所で

ゆっくりと知ったことを、わたしが知らなければならい時に

学んだことを教えてくれる。


大切な時に調和を自然に動けるように


大切な人のために何ができるかは

日々の手が知っている

ちょっと、頑張り過ぎるところがあるけど…


自分のために何ができるかは

日々の足が知っている

無意識にしてしまってることもあるけれど…


意味を知らないといけないことは、頭が関わってくれる

のちにわたしを従わせるのではなく、導いてくれる事は、手と足が用意しておいてくれる

だからすぐにわからなくていい

意味や、価値に頼らなくていい


丁寧にコップを洗う

ゆっくりと歩く

穏やかに話す


日常を丁寧に過ごすという事は、

わたしと、わたしにとって大切な周りに

いつかや、毎日の大切な時に適切な動きをできるように

日々鍛錬してくれているのかもしれない


礼儀

礼節

作法


美しさを込められたそれらは、すぐには分からないことを、のんびり教えてくれている。


そして適切な時にわたしをちゃんと導いてくれる

そして季節が巡ったら、学んだそれらをちゃんと忘れること

それは、わたしが、わたしを忘れない為に。

深いところに御見送りすること。



23 Jan 2020

決断の唄



それを自分で決めたのなら。 

「自分が決めた。」ということを

どうか忘れませんように…


その時が始まりの時なら

あらゆる結果を両手で包む強き優しさが生まれるから


その時が終わりの時なら

たとえそこに痛みと悲しみが刺さっていたとしても、いつか笑顔でそれを

「懐かしいね。」って、言えるから


一人で生きてないので、全部を一人で賄っているわけではないのだけれど

誰かのせいにしたくなる疲れ果てた弱さが当たり前なのだけれども


突然の予想外と共にやってくる心を枯渇させる炎に

些細なことから生まれる押し流される状況や感情に

自分のことしか考えなくなる魔法のような幸福や美しさに


あなたの人生が支配されていいわけはない


自分の人生の流れに自分が参加をしている。という事。

ささやかさであってもこの地球にある唯一のあなたの意思が

わたしをどちらに運ぶのか。

その流れにどうか参加できますように


時が刃を突きつけようが、忘却の果実を持って来ようが、

ありとあらゆる出来事と出来事の分厚い紙一重の間で表現される


「わたしのライフはわたしが決める」


どうかそれを思い出せますように…


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