クラス日誌とかきおき
ごもっとも。
この日誌の日付は5月1日ですが、先の日誌から三日後。4月25日。めでたく、私が財布を忘れます。 前回書いたように、そして、私の生徒が言うように、お財布は完全に無傷で私のところに戻ってくることになりました。
このように、世界が私の想いや、感じることを証明してくれることは、よくあります。
一年間に5回お金を拾ったり。
販売停止になったソファーが、やって来たり。
車が新車になったり。
体調の悪い日にお休みがいただけたり。
誰かのいらないものが、私の欲しいものだったり。
私が何よりも私から自由になると、世界は無条件に私を応援してくれる。
人を変えることはできないが、世界は変えることができる。
常に感じていて、時折、証明してくれます。
可愛い生徒の偉大な一言。
本当に、柔らかく、穏やかで、笑顔がよく似合う私の生徒が、先日、携帯をバスに忘れたそうです。
それを本当に、普通の穏やかな日曜日のような雰囲気で話す姿は、本当に、見事です。
その時の会話です。
私が聞きました。
「携帯をなくしたと、気づいたら、驚いたり、焦ったりしないのですか?」
「うん。」
本当に、何の心配もないような雰囲気で答えます。
「携帯が、ないわけですから、不安になったりしませんか?」
「せん。」
即答です。
「なんで、不安にならないの?」
「だって、誰かが持っていてくれるから〜。」
それは、それは、本当に素敵な笑顔と共に、彼女は答えました。
地球規模で自分の無くしたものを、誰かが持っていてくれるから、無くしたわけではない。と、言える。その彼女の雰囲気が、あまりにも本物すぎて。。。
本当に、すごいなぁ。。。て、思える、素敵な時間でした。
知りましょう
誰かのことを知りたいと思ったのなら、私のことを知ればいいのです。
わたしが作る、私の中のその人が、少し関わりをややこしくしているので…。
私を上手に使いたいなら、私のことを知ればいいのです。
私のどこかを直すのではなくて、私の中にある、頑なな、何かの為に。生まれた私をたずねてあげましょう。
いろんな私がいるのなら、それらを操る隠れた私に気づいてあげましょう。
私の中の脆くて硬いものが、砕けてしまわない様に必死になって守ってくれてるだけなのですから。
嫌いな私がいるのなら、 私のことを聞きましょう。
そうならざるを得なかった私の生き方に、ただ、一生懸命すぎたのだと、教えましょう。
わたしの中の全部のわたしが、どの一音も活躍の場を持ち、「わたし」という歌の調和に必要だということを。
みんな「たいせつ」なのだと伝えてあげましょう。
何事も「過ぎる」のは、よくない。
私は日常、本当に自分がしたい事をどれできているでしょう。 「やりたい」と思っていた事が、きがついたら「やらされている。」と、言うことは、よくあります。
お酒にしても、ゲームにしても、そうなのでしょうね。 「ちょっとした気分転換に…。」とか、「今日くらい…。」とか。
ただ、好きなことほど引っ張られてしまいます。だから、「過ぎない」ように、過度にならないように、上手に動く事が大事なのでしょうね。
どんな好きな事であっても、その時の雰囲気に作業の雰囲気が流れ始めたら、せめてその雰囲気に気づいたら、それは一旦、置いてもいいように思います。
自分が何をしていて、その行為のどこを愛しているのかを認識しながら、起きた状態で、自分の行為と関わるのは、自分の経験を味わい深く、豊かにしてくれるように感じます。
「常に」は、難しいですし、必要性もないと思ってます。 だけど、せめて、気が付いた時、そのように動いてみては…。
そして、意識できる行為であれば、なんでもいいので、無理に楽しいものや、浮かれるものを探さなくていいように思います。
人は何からでも、学べるし、なんでもおもちゃにできますし、すべてを思い出や糧にできるので…。
少しの間、このように生きてみようと思います。
今日の学び
人は何からでも、学べるのでしょう。 大きな人からは、憧れと、可能性を感じさせてくれる、大きなことを。小さな人からは、ささやかなものや、許すことへのきっかけとなる、小ささを。
力で抑え込めるのは、相手の力だけであって、想いや心は押さえ込めない。
人は悩んだり、真剣に考え続けると、物事が細かくはっきりと見えてきます。 認識の力は鋭くなりますが、その代償として中間が失われてゆきます。 意見や考えや感情などが鋭くならないか心配です。
物事や出来事に対する思い込みによる直感と、霊的感覚による真理への直観の違いは、ささやかに明確で、思い込みによる直感は、結果に向けて次々と、想像を生み出します。 一方、霊的感覚による直観は、それ自体で存在できるので、結果による支えは必要ないように思えます。 そして、その後、ゆっくりと感情が生まれ、そしてしばらく後に、叡智を生きる力が生まれてくるでしょう。
この日。 数年前に見ていた生徒が、事故で旅立ちました。
数日後葬儀が行われ、たった17年の人生でこんなにも、色々な人が、参列に参加していることに、驚嘆しました。
同い年の、ちょっととんがってる子達。 普通の感じの子たち。 中学生に、制服がバラバラの高校生たち。本当にいろんな所から来ていて、大人もいて。若者もいて。男女関係なく。
彼の人柄を十分に表現するだけの葬儀でした。
きっとそれぞれ葬儀にこられた人たちの中で、それぞれに彼はみんなに語りかけるのでしょう。 そのどれもが本物で、どれもが、彼のかけらです。
近年は関わっていなかったので、それは本当に残念に思います。 ただ、こうなって、今感じるのは、彼が生きていたという証をわたしを通して、表現したいと、感じています。
誰に対しても優しく。 正しさをちゃんと胸に持って。笑顔が素敵で、笑わせるのも大好きで。 好きなものがちゃんとあって、それに対しては本当に真剣で。彼が完璧な人間だった。ということではなく、彼がそのように生きたのなら、幸福にも彼に出会えたわたしは、彼が生きていた証として、そのように生きてみようと思います。
これは、立派に生きるとか、正しいことをする。ということではなく、確実に彼が生きていた。という成果を、わたしを使って、表現したい感じです。
わたしが見た、彼の中心を、大切に。丁寧に。 出会えて本当に良かったです。 またいつか、会いましょうね。
「対立」への思い出。
様々に学んで行くと、様々な叡智に出会う。そしてそれらは、時として、わたしに「義務めいた」関わりを保とうとする。「叡智のするようにできたらいいな。でも、できない。」
このような思いや感情が芽生える時もあるだろう。
常に正しくはいられない。 聖人にはなれない。 人は結局その本質は「わがまま」で「悪」だから。という、言葉も生まれるでしょう。
ですがそれらは、あなたと叡智を断絶するために存在するのではなく、むしろ、統一に向けてのお知らせのようなものなのです。
「目に見える世界と、見えない世界があって。」 「いい部分と、悪い部分があって。」「いい人でいる時と、悪い人である時があって。」 「本当だと感じて、嘘だと見つけて。」揺さぶられるように、考えも、感情も、動いてしまうでしょう。
それらはきっと、何かを育む呼吸のようなものなのです。両方きっと必要なのです。 私たちが体を使って知覚できる世界。があって、その背後にそれらを作り出すことのできる力が存在する見えない世界がある。 人の素晴らしさを感じる時があり、人の汚さを味わう時がある。そういった事柄の、その両方に、それぞれ何かを支える大きな柱があり、その両方の柱で支えられているものがあるのです。
その支えられてるものを 「現実」 と、いうのでしょう。
わたしの現実。 他人を含めた世界の現実。 どれも、両極が存在します。 それらを認めて行ける力を「自由」といいます。 そしてその力に貫かれた行為は愛情めいています。
地上世界において、自由と共に、目に見えないものを学ぼうとする意思は、現実を知りたいという意思でもあり、愛情表現への意思でもあるのです。
対立が統一へと生まれ変われる道なのです。
クラス日誌
先日。 東京の方で新しくクラスが生まれました。 クラスの要望をいただいてから数年が経って、生まれました。
先日、初めての呼吸を行ったようなものです♪
あいかわらず、「習う」より、「学ぶ」であったり、「もらう」より「見つける」、「理想の私になる」より「本当の私を思い出す」。
このような雰囲気で、歩んで行けるといいな。と、思います。
本当にみなさん。上手に学んでくれて…。 非常に救われました。
ちゃんと恩返しできるように、ここに残しておこうと思います。
もうそろそろ。「明けましておめでとう御座います。」が、通り過ぎる頃です。
初日の出を見に行かれたかも、いらっしゃるかと思います。
いつだったか、
「『初日の出』って言っても、いつもと変わらない朝日でしょ!行く意味がわからんし。」
と、言われたことがあります。 いや。。。。
「ごもっとも。」
そうですね。 自然側から見れば、いつもと同じ日の出だし、同時に、いつもと違う日の出だし。その日だけ切り取って、「特別なひので。= 初日の出」に勝手にしてるだけ。
「いやいや。全く、その通りだと思います。」
だから、人って、どのような瞬間も、自分の意識で特別にできるのだと思います。
いつもの朝。
いつものごはん。
いつものコンビニ。
いつもの会社。
いつもの同僚。
いつものあいさつ。
いつものコーヒー。
ってな具合に。 「いつも」はありがたいことに、ちゃんと、やってきてくれて♬
私たちが、自分の意識で特別にすることのできる素材をちゃんと、届けてくれる。
わたしの意識で、わたしはいつでも、「いつも」との出会いに、「特別」な眼差しを向けることができる。
そしてそれは、「いつも」から、いつも受け取る雰囲気以外の「特別な、なにか」との出会いになる。
時にはそれは、自分のことについてだったり、世界のことについてだったり…。
と、いうことで、わたしも、一枚写真を撮りました。
この写真は、「初日の出」のように見えますが、大晦日の夕日です。
来年から、特別な夕日にすることにしました♬
「終の入り」(ついのいり) ? の、ような感じです。
こうしてみるとやはり、わたしの中に、特別な何かが生まれます
「意識」って、不思議です。
〜覚書〜
「たのしさ」
誰かの中から、幸せを呼び起こせた時におとずれる。
「健康」
結果ではなくて、状態の事。 「より良い」に向かう様。 なので、「より良い」に悩まなくて良い。そこへと向かう様、その変化を健康と、言う。
「期待」
自分以外の存在に持つ事で、現在にとって毒のように作用する。その効果は「忘却」や「妄想」
「偏見、かたより」
自分の中の「偏り」に、それとは対極の要素を持ったものが生まれれば、これまでの「偏り」は、あたらしくうまれた「それ」と共に、わたし一人では行けなかったところへ、私を連れて行ってくれる、翼となる。その偏りは、それが悪いのではなく、「それだけ」である事が、不都合さをあなたにもたらす。 方翼なので、同じ所をグルグル。その「偏り」に相棒を見つけてあげよう。同じように、グルグルと回るしかできなかった、もう一つを相棒にしてあげよう。 二つの偏りが、お互いを打ち消すのではなく、お互いを高みへと羽ばたく両翼の「連れ合い」として。
「光」と「闇」
「光」は「意識」に似ています。「闇」は「意志」に似ています。
その間に豊かな色彩が現れ、それを感情と呼びます。 色はそのように現れるのかもしれない。という立場をとって色彩を眺めると、また、違った印象が湧きます。
赤色の感情はわたしに何をさせるのか。 青色の表情はわたしをどうさせたいのか。
本当の自分を巡る旅は、時として、「答え」より「質問」の方が前に推し進めてくれたりするものです。
尾道のクラスでは、このように色彩を巡る時間がしばらく続きます。朝から夕刻まで、じっくり時間を使って、帰る頃には学んだことの雰囲気を帰りの夕日が包んでくれます。
本当に毎回長い間、学びの時間を共にしていただきありがたく思います。
雰囲気と感覚に優しい光を当てながら、暗いところにあるわたしを操るわがままで、可愛い意志との出逢いを、のんびり巡って行きたいと思います。
物事の意味
よく、子供達に、「なぜ勉強をしないといけないのか?」と、聞かれる時があります。
それにはきっと、様々な答えがあるのですが…。
先日、ある女の子が、その答えの一つとして、随分と男前なことを言っていました。
「なんの為になるのかはわからないけど、私が一生懸命やる事に、意味がついてこないわけがない!」
いろいろあり、不登校の時期を経て、この気持ちを彼女が表現できたのは、素敵な事だと思います。
確かに全てを休んでいた時期もあるのですが、きっとそれは、今、彼女が人生で奏でている歌のために、必要な休符だったように感じます。
休みのない音の連続は歌にはなりにくいものですから。
わたしが、子供から学んだことの一つでした。
ねんど
クラスで粘土の授業を行いました。 相変わらず、様々でした。 何からでも学ぶことを進める彼らは、本当に、何からでも学ぼうとしてくれます。
それは、死から再生への力にも似ていたり、人生のページをめくる力にも似ています。
良し、悪しは、所詮どこでページをめくるのをやめたか。くらいです。 ライフは流れで、感情は瞬間で、それらをつなげたり、眺めたりするのが意識です。
私たちには、過去からの呪いを、祝福に、今の辛さを、感動に。未来の混沌を可能性に。 そのように、世界と関われる、めぐみ(愛)(恵)と力がちゃんと、あります。
ただ、よく、ほんのちょっと、どこにあるか忘れてしまいますけどね…。