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クラス日誌とかきおき

29 Jul 2020

なぜ調子に乗る?


「だぶりゅ」さんへのお返事をきっかけに書きました。


コメントと質問ありがとうございます。 


自分にとって都合が良い事が起こる→嬉しい→調子にのる→おごる

…が、なぜ、起こるのか。とのことですが。。。。


確かに、自身がこの動きをしている時に、この動きに踊らせれている自分に気付くのは難しいでしょうね。

まず、「どうして起こるのか」ということですが…。

「嬉しい」までは、何ら問題はないと思います。感情とは個人的なものですし、その素直さは、大切に思います。

ただ、ポイントは、そこから、「調子に乗る」へ向かう間にあるような気がします。その後の「おごり」も、「調子に乗る」と、同じような色合いで、そこに向かうまでの一瞬に、何かできることはありそうですね。
そしてまた、私が考えるそのような動きになる原因は、2つ思い当たります。


1.私たちの認識の仕方の作用。
2.「何かのため」から「自分のため」


まず、「認識の仕方」ですが、例えば、私たちが、外に出て、公園の真ん中にある一本の木を見ます。 次の日も見ます。その次の日も見ます。
すると私たちは、その木を目の前にしても、もうその木は見ません。
頭の中にある(経験から生まれたその木)をよりどころに、木を見ます。

だから、いつの頃からか、その木はいつでも、同じ木だと思い始めます。
私の中に保管されたものを主として世界を見ますので。

上記の動きもこれに似ていて、「都合のいいことが起きる」→「嬉しい」→(ここで!!)この都合のいいこと。または状態や状況が、嬉しさという感情と共に、保管されます。

その後の「調子に乗る」ですが、どこかで無意識的に、「このようにすると、こんなに気持ちがいいんだ。」と、いう声が無意識へ響く感じです。 

周りからの同意と称賛。笑顔と感謝。そして私の満足感。

本当にそれ自体は何ら罪はないです。私の人生経験の味わいですから。
ただ、それをまた感受したいがために、同じような雰囲気(同意と称賛が得られるであろうまえぶれの)が生じたときに、今度は、誰かの為や何かのためではなく、自分の為に(自分の心地よさの為に)その状況や世界を利用するのでしょうね。
これが、二番目の原因です。

人間の意識を最大限に高めるのは、「利己」ではなく「無私」です。(「利他」でないところに、素敵さがあると思ってます。)


そして、その時、幸運にも、自分の期待したものが来なかったりすると、ふと、我に帰り、「調子に乗ってる」と感じるのでしょう。また、悲しいことに、それが本人に気づかれず繰り返されると、いつの日か、「おごってるな」とも、感じるのでしょうね。

まぁ、いずれにせよ、成長のきっかけにはなるとは思います。


ここで話していることは、同意と称賛。それによる嬉しさが、悪ではない。ということです。
それはそれは、素晴らしいものです。当然です。

ただ、知っておいてほしいのは、あなたが誰かのもしくは、何かの役に立ったり、活躍ができたり、私にとって幸せなことが起きたとしても、私の働きや、できること、また、あなた自身への探究はこれで終わりではないよ。と、いう意味で、世界はあなたに恥ずかしさを届けてくれます。

そして、世界から帰ってくるものに対して、自信を恥ずかしいと思えること。そういった人は、成長できる可能性が十分にあります。

世界はそういう人を見逃さないですね。。。。


私にもたくさん思い当たる経験です。 ひょっとしたら、この内容の後、いただけるコメントで、私はそのようになってしまうかもしれません。

なので、私は、せっかく頂いた皆さんからの、同意と称賛を、心地の良い結果を、私の恥ずかしさの原因にしないように、ちゃんと味わって、「ご馳走様」をします。


この表現がどの程度伝わるのか、心配な感じもありますが、頂いたものを、

ともすれば、相手を責めるきっかけの、「期待」にしないように。
ともすれば、私を眠らせる「甘い誘惑」にしないように。
ともすれば、感謝を忘れる「当たり前」にしないように。

上手に、この体験を上に届ける感じです。お見送りする感じです。


頂いた質問に、これが十分かどうかも、わからないのですが、また、不思議に思うことがりましたら、いつでも、コメントくださいな。


今回も読んでいただき、ありがとうございました。

















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21 Jun 2020

不都合さに対する霊的まなざし


コメント欄にありました。質問へのお返事です。


ブログに、復活を与えてくださり、ありがとうございます。



さて、さて、「不安要素と不都合さ」に対する“霊的まなざし“ですが…


前のブログでも書いたように、私たちは、出来事に対して(自分にとって不都合さや苦労、痛みや、それに似た感情を誘発する出来事)に対して、自然発生的な、生き残るための反応だけではなく、私の方から(反射的でなく)まなざしに作用し、出来事に対し働きかけることができます。


これは、「辛い思いを、または、感情を避ける為」とか、「そう思うと、辛くないでしょ?」ということを動機にも、目的にもしない私の働きかけです。むしろ、現実を明確にするための動きと言って差し支えありません。


その辺の雰囲気をはっきりさせて、数ある霊的なまなざしの一つをお話ししますね。


出来事の中にある、損得や、有益、不利益を天秤にかける話はしました。それはとても日常的で、よくする人の動きです。これは魂的な動きです。

もちろんそれでも、人は、そう言った事柄と折り合いをつけることができます。むしろ、こう言った思考の経験がある方が、ゆくゆく、霊的な眼差しに対して、素直に歩みを進めれるようになると思います。


また、同じように前回、靴や、人参のお話で、私にとってのその出来事の中にある不都合さが、私の目的や願いではないことに気づく。というのも書かせていただきました。


少々、前置きが長くなりましたが、「霊的なまなざし」です。


それは、そういった不都合さに対して、感謝のような雰囲気が生まれる。まなざしのことです。


タイヤがすり減ってくれるおかげで、私は進んで行ける。

人参が天寿を全うせず、私の血肉になることで、私は今日も、好きな人に会える。


それは、私に関わった全てが、私を通して何に生まれ変わるのか。にも、似ています。


このような雰囲気で、一見すると悲しみや、嫌悪感を感じる不都合さに対して、感謝を見つけられるのは、だいぶ霊的です。


ただ、繰り返しますが、強制ではないです。「出来事を霊的なまなざしで、みないといけない。」と、捉えると、全然不必要な、アイデアです。

これは、事実と、自分の動きの話です。また、人生の歩み方の話です。


人生といえば、ライフは点ではなく線なので、一旦決めた、「不幸な出来事」も、歩みの中でその見方は変化してゆきます。

なんとなくですが、その出来事が本当に最悪だったのか、または、幸福だったのか、私ではなく、その出来事自体が真実を告げるのは、きっと、死んだあとなのかな。って、思ってます。


出来事により生じる、辛さや、痛み。


それが、私の人生に現れて、そして、その痛みや悲しみが、私を通過して、どのように生まれ変われるのか。


私は、のんびりと、そういったものに関われるのは、楽しみであり、幸せなような気がします。


ま、悲しみのどん底にいた。という経験がないと、関わり自体もてないのですけどね♪



このような感じです。


また、質問等、ありましたら、コメントくださいな。




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17 Jun 2020

不安要素や不都合さ



ブログ。。。。。 すいません。 まだ、寝てなかったです。。。

まぁ。。。小さな子どもが「寝れなぁ〜い。」と、言ってる感じで読んであげてください。



少々、書きます。



例えば。 

就職したいと、考えます。

ところが、

給料は満足だけど、休日が少ない。

就労時間は適切だけど、通勤時間が長すぎる。

など。


こっちはいいけど、これがダメ。とか。

それがなければ、完璧なのに。など。

それはきっと、人にも言える時があって、


いい人だけど、収入が。。。。とか。

穏やかだけど、怠け者。など。


こういった時って、私たちを悩ませますよね。

こんな時よく人は、天秤にかけることをします。

天秤にかけて、どっちに傾くかで、判断し、多少労働時間が長くとも、給料がいいから、働こう。とか、収入が少ないけど、いい人だから、結婚してみよう。など。(これは、あんまりいないか。。。)

このように、差しあったっての「良さ」と「不都合さ」に折り合いをつけます。


ま、これらのことについての霊的な眼差しは、少々違ってくるので、言葉も変わってくるのですが、それは、ここでは割愛します。(興味のある人は、いつでもコメントください。)


話を戻します。


そのようにして、折り合いをつけることもできるのですが、一つ、知っておくと、少々違う色合いで、こういった事と折り合いをつけることもできます。


その一つの例が「車」や「野菜」や「お金」です。


つまり、私たちは、タイヤをすり減らすために、車を運転しているわけではありません。靴底を削ることを目的に、靴は履きません。

人参をこの世から抹消するために、人参を食べません。

消費することを目的に、お金を使うことも稀でしょう。




何かをするときに、何かしらの不都合さが生じることを、世間では少し厳しい言葉で、「痛み無くして、得るものなし」とかいったり、錬金術では、「等価交換」と呼んだりもするのですが。(錬金術師は、等価交換操りますよ♪)


これは「仕方のない話」というよりも、「引き受けられる。」と、いう話です。


私たちは、それを引き受けられる自由さを、ひょっとしたら強さを、ちゃんと持っているのです。


私たちの行動により生まれる不都合さ。その不都合さを人生の目的とするのではなく、私の目的がなんであるのかを明確にする。


タイヤすり減らすために、車を走らせているのではなく、行きたい場所に、会いたい人の所へ向かうために、車を走らせている。


人参を撲滅するために、人参を食べいるわけではく、明日への元気の為にそれを食す。


同じように、長時間の移動をする為にこの仕事をしていない。お給料をいただくため。とか。

この人の気の利かないところを責めるために、私はこの人と結婚したわけではない。など。


何なの選択や行動をする時、私が一体何を求めて、また、なんのために、そうするのか。 

少し、意識してみる。 そして、私の願いを明確にする。そして、動く。

大丈夫。その時あなたは、自分の願いのために動いている人であって、不都合さをちゃんと引き受けられています。もはや、それがあなたを狂わせません。


このような場所からも、私が私の願いを叶えることに想いを集中することでも、そのように、不都合さを引き受けることができる。

と、いうお話でした。


もちろん、「引き受けない。」も同じその場所に存在しています。

これは、呪いの話ではなくて、自由の話ですから♪




それでは、おやすみなさい。。。。。



あ、あと、ブログのコメントについては、遅くとも次の日には、内容を確認して、コメント欄に載ります。私がお返事を書く時も、あるやもしれません。

ブログに表示されたくない人は、メールで、コメントくださいな。



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16 Jun 2020

思い込みについてできること・最後?


なんとなく、今回で一区切りがつきそうです。


キーワードは「美しさ」や「意志」、あと、「お任せ」や「お手紙」かなぁ。。。


今は、私たちは、感情や思い込みに対する原因究明ではなく、それらの発生の後の「できること」についてのお話を進めています。


ちなみに、物事の原因や理由がハッキリしなくても、私たちは、理解をしてあげれば、進んでゆけまるからね。ご安心を♪




さてさて、ここまで話が進んでくると、少し不思議なことが起こります。


これまで厄介とされていた「感情」にこれまでとは違う能力というか、役割が担えるようになります。


適切に育まれた感情は、私たちの経験について、個的な私たちの経験に色合いを載せたり、世界との架け橋になるばかりでなく、未来を予想する感覚器官となることができます。


イマジネーションの力によって、妄想は癒され、いろんな見方とともに、いろんな可能性が見えてきます。


物事や出来事が生じたのち、私がその世界に対してどのように立ち振る舞うのか?


イマジネーションによって生まれる創造性は無限にあります。


そしてその中で、私が最も愛せる行為を、その行為そのものを達成するために、私を使ってあげるのです。


これは、行為の結果に向けての話ではなく、自分の行為。それだけに想いを載せる。それだけの話です。


あ、ちなみに、何度失敗してもらっても、かまいません。


話を戻します。

行為そのものではなく、結果を意識しすぎてしまうと、期待が生まれ、未来に向けて、一つの正解を作ってしまうことになりますので、期待したそれ以外を全て失敗と見放す現象が起きます。

これは、未来に向けて自分の幸せをかなり限定化する行為です。

落胆も増えますし、恨みも生まれるかも知れません。

状況によっては、役に立つ時もあるでしょうが、今は、お勧めしません。


なので、未来に向けては、「期待」ではなく、「願い」くらいがちょうどいいのではないでしょうか。


そして、期待の呪縛から自由になって、自分のその行為に込められるもので、似合うのが、「美しさ」です。

この美しさの物差しは、個人的な感情を頼りにしていいですよ。私が「美しい」と思える行為。または行為の中に美しさを込めて表現する。

それで、いいのです。


「そうすると、どうなるんですか?」


と、誰かが尋ねるかも知れませんが、、


「わかりません。」


「だって、私は、行為の結果のためではなく、行為を美しさのための道としたのですから。」


その道が、どこにたどり着くのか、後は、世界にお任せです。 


「でも、もし、その行為が、失敗だったら、間違いだったら?」


「安心してください。間違えたら、ちゃんと、また、世界から、不幸とか、トラブルとかが、やってきてくれますから♪  不幸や、トラブルは、世界が私たちを困らせようとして発生させているのではなく、世界が私たちの成長を諦めてないよ。と、いうメッセージでもあります。」


まぁ、出来事を「不幸」と呼ぶのは、世界でなく、私なんですけどね。。。。



だらか、安心して、間違えればいいのです。 


世界からの手紙が(たとえそれが、困難や、トラブルであったとしても)帰ってきたら、またそこから学べばいいのです。

私の至らなさと、仲良くなれるきっかけが、また、やってきてくれたのですから。そして、弱さや至らなさの存在を受け入れられた時、その人は、成長というか、変貌を遂げます。


もう、きっと、思い込みの呪縛からは自由になっているでしょうね。


至らなさを抱きしめ、失敗や間違いから学べるようになった人は、もう、パワーを求めません。

自分自身が、パワーそのものですから。 獲得する必要も、求める必要も、振りかざす必要もないのです。

きっと、そのパワーで「優しさ」を奏でるでしょう。


だから、今の自分が「素敵だな。」って、思えることを私の意志の力で行い、あとは世界にお任せです♪



なんとなくその決断に、感情が役に立ってくれます。

思考ではないので、はっきりと理由は告げませんが、

「なんとなく、、、違う気がする。」とか「なんとなく、これで、いいように思う。。」みたいな感じを助けてくれます。


そして、世界からのお手紙を待ちましょう。。。。


もし仮に、私たちが、世界で自分の歌を美しく歌うことができましたら、世界からの手紙には、「私のできること」「私のしたいこと」「私がしなければならないこと」のそれぞれが調和を持って、私のもとを訪れてくれます。


どうやら、それを「しあわせ」と、いうらしいです。


いい道だと、思いませんか? 



ざっと、まぁ、こんな感じかな♪   


では、ここいらで、この講釈を一旦、しめさせていただいます。


皆さま。 コツコツと読んでいただき、ありがとうございました。



またブログは、眠りにつくでしょう(笑) 


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14 Jun 2020

思い込みについてできること6


ここまでの流れを少しまとめますね。


物質主義により、私たちは私の中にある感情も、出来事も、物質のように関わるため、自分で自由に扱えるはずの、自分のイメージや、自分の考えなのに、自分ではどうしようもないように、絶対化してしまいます。


その絶対化を柔らかくしてくれるのが、落ち着きのある時に、意識の光をあて、ぼんやりと様々な考えに出会うことや、日常の関わりの中で、深く豊かな経験をすること。そういったことが、その人の中に豊かさを備えた理解のフィールドを作り始めます。そして、いろんな立場の存在を許せるように育ってゆきます。 


それは、他人との関わりにおいて、あなたが愛する人に安心感を与えます。




さぁ、そして、今回のキーワードは「イマジネーション」です。


ここでいう、「イマジネーション」は、「創造力」に近いように感じます。


これは、自分の妄想力を癒してくれる力です。


今は、もう、思い込みの原因ではなく、「できること」の領域のお話になっているので、その色合いで、お話ししますね。

もし、仮に妄想力に襲われ、不必要な感情が私を支配し始めたら、私の頭の中で、「本当に?」って、尋ねてあげるといいですよ。

もしくは、「。。かも知れないねぇ。」のような雰囲気で、語りかけるのもいいでしょうね。


それらは、妄想が加速するのを立ち止まさせる力になります。


何か、不都合や、不条理に何かに襲われた時、私たちは、「なぜ!?私だけ?」とか、「なぜ?!こんなことに」など、過去に向けての声が響きますが、思考する存在である以上、それは、本能のように発生するまなざしです。懸命に「なんとかしたい!」と、思うので起こる現象なので、いけないことはないのですよ。

また、大変な思いをしているのは、頭の方ではなくて、心の方なので、物事の発生に対して起こる、「なぜ?!」に対する理由や、原因は、意外にその時、必要なくて、その原因の「真実」より、私の心をケアーしてくれる、「納得感」の方が、その時は必要なのだと思います。

ざわざわしている時は、まずは、落ち着きが優しく作用できるはずですから、理由が知りたいわけではなく、落ち着きたいだけですから、理由を知ることより、「うん!落ち着こう♪」の方が、似合うかも知れませんね。


そうして、ゆっくりと、イマジネーションの活躍の時がやってきます。

イマジネーションとは、自分の妄想力の面倒を見れること。妄想力のお話を聞いてあげれること。

そして、ゆっくりと、私を揺さぶる出来事が、「最悪」の側面だけではなく、それ以外の側面があり、ゆっくりとその出来事に対する感想が変化してゆき、その出来事による感情から、参考になることはあっても、私をもはや支配しないものとして扱えるようになる現象のことを言います。


意外にそれは、日々のささやかなトレーニングによって、上手に使えるようになり、感情が発生したその後、一瞬で、全てのプロセスを終えることができるようになります。 

それは、本当に、刹那で。 一瞬という永遠を生きれるあり方です。


そうして、その後、未来に向けて、動き始めます。

未来は完全にカオスですから、そのカオスに様々な私の行為の選択肢を無限に見ることができます。


そして、その後の私の行為を「私」の名の下に、私の中に根拠を抱えて、行為を決めるのです。


ここまでの話で、きっと、何人かの人は、これまでの動きを「できる」とか「できない」とかを心配されるでしょう。


それは、ごもっともです。


でも、やはりこれも、この活動も、物質ではないので、「できる」「できない」のようにはっきり分けなくて良くて、やんわり、「めざそう」くらいで、いいのですよ♪


イマジネーションですが、まずは、私の妄想力の発動に気付いてあげてくださいな。 

その妄想力を発する私は、私の人生で、何が一番大切なのかを、実は、ちゃんと知ってる「私」ですから。


不器用ではあるのですけど、素直な子です♪


なんてことない時に、そんな語らいをしてみては、いかがでしょうか。


では、次は、「美」についてです。


難解な内容となってきておりますが、お付き合い頂ければ嬉しく思います。





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13 Jun 2020

思い込みについて出来ること5


みなさん。こんにちは。 前回は主に「理解」についてお話をさせていただきました。

それは、「許す」力につながる。ということ。少し、「許し」に向けてお話をしますね。


その前に、「理解」についてもう少し…。

もし、理解の力が偏りすぎると、その理解への愛情ゆえに、そうなってしまうので、なんとも、切ない気持ちになるのですが、理解あるがゆえの拒絶が起こります。


それは、私自身にも言えることなのですが、何かをものすごく理解できた時、共感や感動と言っていいようなものに包まれた時、その人はある意味、叡智の光を手に入れた感じです。

ですが、その光が強すぎると、何かの問いや出来事に出会った時、その出来事の背後に、強すぎる影を生み出すことになるのです。ひょっとしたら、その存在を溶かすやもしれません。


少し、日常的に話をすると、何かを「わからない!」と、言い放つ時、何かを分かりすぎているので、「わからない!」を表現する時があるということです。これはもう、「わかろうとも思わない!」に、似ています。

こうなると、「理解」の話ではなく、「勝ち負け」の話に似てきます。


この辺りの闘争が好きな人は、叡智や知識を武器に変えるのが上手です。

また、常にパワーを求めている感じです。


ですが、時には、知識や叡智に対する愛情が偏りを生んでる時もあるので、少々、切ないです。


「何事もすぎるのは、よくない。」 と、いうことでしょうか。。。


上記のような切ない状況を緩和してくれるのが、そして、その愛情を「頑固さ」から解き放ってくれるのが、すべての存在を許すフィールドをもつ、「理解」からの「許し」です。

「理解」が「許す」を歌い始めた時、その人はピース・メーカー(平和を奏でる人)になります。もはや、闘争や逃走からも自由です。


理解を通して生まれた安心感は周りを包み、繰り返しの中で「絶対安心感」を奏でるようになります。

その「絶対安心感」に包まれた人は、内的な成長を必要な時に、適した歩みで進んでゆきます。


特に、子どもは、そうでしょうね。



様々な理解を持てるようになり、出来事や対象に対して、様々な考えを許すようになったので、その人は、一つの立場や、出来事にいろんな意味や価値がある。と、感じるようになります。


そうなってくると、これまで、私の中に存在していた、「絶対感」をまとった考えや、意見。の様々な側面を見れるようになります。


それは本当に様々です。 ですが、この時、ある人たちは、一番最初に持った考え、または、感情を自分の本性とみなします。


この本性に対して人は、その魂により反応や対応が違うのですが、一つの例として、その初めに持った雰囲気があるのに、違うアイデアを持つことに罪悪感を感じてしまう人がいます。


「この出来事に対して、本当はそう思ってないのに、(成長しないといけないから)そう思わず、綺麗な方を、思うようにしよう。。。。。。でも、できない!!!だって、それ、本当の私じゃない!!」


みたいな感じです。


物事が様々に見れるようになったのに、全てを等価値に存在させるのが難しい感じです。

この原因は、「はやさ」さです。少し、「早い」のです。焦りすぎです。急ぎ過ぎです。


いうなれば、まだ、私のどこかが、「私をわかって!私を受け入れて!」って、言っているのに、動いてしまっている感じです。


知識だけで、辛さから逃げるために、結果を夢見て、経験の乏しい内的成長を促進させると、こう言った悲し出来事が生まれかねません。


この時はまだ、決める時期ではなく、わかってあげる時期なのです。だから、自分の気持ちに詳しくなるといいです。どの瞬間にそう、思い始めたのか。どんなイメージに襲われたのか。どうなるのが怖いのか。淡々と、知っていってあげるだけです。


その時、アドバイスは必要ありません。

ポツリ、ポツリと、ゆっくりわかっていってあげることです。自分自身が自分のために。


その歩みは、本当にゆっくりと、繰り返しです。 ですが、確実です。



なので、内的成長はよく、「焦らず、おごらず、人知れず」と、申します。



こと感情というのは、私たちを支配する動きを見せますが、本来、私と語らうために生まれます。かまって、欲しいのです。わかって欲しいのです。

大事にして欲しいのです。 育んでもらいたいのです。




どうでしょう。。。今回のキーワードは「許し」なのですが、少しここで、詞なんぞを残します。






 自分が本当に嫌になる。

 失敗が嫌だ。間違えたくない。でも、間違えてしまう。失敗してしまう。

 嫌なことから逃げたのに、嫌なことが繰り返される。

 その度の自己嫌悪

 正しいことが上手にできない

 その都度の悪口や意地悪

 誰も私を見捨てない価値が欲しかっただけなのに

 今は、みんなが敵に見える。

 だからいらない。だから嫌い。



 なのになぜかその人は、こんなにも未熟な私を決して諦めない。

 私が放り出してしまった私の価値を

ドロ沼の中から、手を汚してまで、私のカケラを探し出して、私に届けてくれる。

 受け取らないのに…

   その人はそれを大事に持っていてくれる

 私が何度も諦めた私を決して諦めない。


 繰り返される過ちを、自分の為に出してしまった謝罪にも、

「いいんだよ。大丈夫。ちゃんとわかってるから。」と、そばにいてくれる

 私が私であることを、全部、引き受けてくれる。

 何をしてもいいんだ。って、甘えが、何をしても大丈夫なんだって思える安心感に変わってゆく。

 ゆっくりとその安心感が浸透して、いつかのカケラを可愛く思う


 いつか自分の唄が歌えるように

 そんなふうにも思えて来て

 どんなにヘタクソでも、たとえ、1人でも、その人だけは聞いてくれる

 「らしさ」を込めたうたがいつか

 私の大切な人の安心感になるように

 

 安心して、間違えられる。安心して、失敗できる。

 安心して、繰り返せる。


 本当の価値と正解は、きっとその繰り返しの向こう

 同時に、その繰り返しの中からしか生まれないものにも私は出会う。


捧げることができた時、その人は、間違いに慌てるわたに向けた同じ笑顔で

 

 「よかったね。」って、言ってくれる。










 次回は、「イマジネーション」についてです。が、多分「意志」や「信じる」ことについてのお話になりそうです。。。。。



 

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11 Jun 2020

思い込みについてできること4


さてさて。。 前回まで、主に感情の誕生についてお話をしてきました。


今回より、「できること」のお話です。


ふわぁっと、「できること」と、書きましたが、意外に、この雰囲気は大切です。

単純に、子どもに勉強を教えるときでも、「そこ間違ってるよ。」や、「ここ、おかしい。」って、間違いを指摘するより、間違えたところに、「ここ、もう一回やっていいよ。」とか、「ここ、まだできることがあるよ。」と、語りかけるのとでは、全然違う雰囲気が、子どもの中に生まれます。


私たちも同じように、ある程度人生を歩いてきた人間ならわかるであろう、感情による過ち、失敗、誤解、苛立ち、思い込み、浮かれ気分、そういった私を否定するための話ではなく、そんな私にも、そこから始められる何かがある。できることがある。と、感じていただけると嬉しく思います。


あ、もう一つ素敵なことを思い出しました。


成長に対して絶対的に必要なのは、「理想」や「目標」ましてや「方法論」ではないですよ。

そう言ったものより、絶対的に必要なのは、「間違い」や「失敗」です。

未熟があるので、成熟があります。 何もなければ、成長も発展もありません。 

だから、悪い事だけでもないのですよ♪ 私たちの人生にちゃんと、至らなさが散りばめられていることは♪


さぁ! 本題です。 (いや、以上もだいぶ、本題です。。)


私たちが人生においてどうしようもない感情に襲われてしまうことに対して、いくつかのできることなのですが。。。


これは、日常においても言えますし、感情の暴風雨の中でも言えることなのですが、「理解」がその助けとなります。


で、「理解」ですが、ひょっとしたら、私の考える「理解」と、皆さんの「理解」の働きや意味が違うかもしれませんので、ここに書きますの。


よく私たちは、ある考えや価値観があって、それを持って、または支えに生きて行くのですが、その価値観があるとき、「間違ってる?!」とか「役に立たない!」と感じてしまった時、これまでとは違ったアイデアや、価値観を取り入れて、価値観やアイデアの “アップトゥデート“ を行います。


このときよく、理解力を持って、「これまでの考えは間違っていた。でも、今、それに代わる新しい考えを理解した。これで大丈夫!」と、言えますが、私の言う理解は、このようなことを言いません。


私の言う理解はこの時、「なるほど。これまでの考えあって、そうではない、新しい考えも、あるんだな。」です。

私の中に、これまでと、今が、(ひょっとしたら未来が)共にある感じです。

たとえ今、この状況で、これまでの考えが役に立たなかったとしても、「僕は、君を(至らない考えを)諦めない。共に、新たな考えを迎えにゆこう。」は、すごく好きな立場です。


全てを、たとえ真反対であったとしても、等価値としてそれらのアイデアを私の中に置くことができる。


そして、それを置くフィールドの大きい人を、理解力のある人。と、言います。

様々な立場、考えを私の中に置くことができたなら、私の中に、「許す」と言う雰囲気も育ってゆくはずです。


「あなたがそうするのを受け入れる。」でも、構いません。


一つ言うと、「許せない」と「理解できない」はすごく似ています。


と、なったら、私が私に対して、特に私の至らなさや、未熟さについてどれだけ認識の光が当たっているかということが、また、それらに対して、私がどれほど理解できているかによって、許す範囲や程度は変わってきます。


そうなんです。。。私が新しいアイデアや価値観によって、しかも、夢見心地にそれらを自分の深いところに取り入れてしまうと、いつまで経っても、この未熟さを受け入れられないので、許せる範囲は、どんどん、狭くなってゆきます。それは生き方を狭くしていることと同じなのです。


そうなると、(受け入ればかりやってると)誰かの言いなりになって生きてゆくことになりませんか?

周りの悪を許してゆくと、世界も、周りも不幸になりませんか?

と、いう問いがわく人がいるやもしれません。


それは、あり得ません!!!







嘘です♪ あるでしょうね。そんな時も。そんな心配も。


でもね。。。なんとなく私は、それは「わからない」が、ホントかな。って、思ってます。こと、未来のことに関しては、そのように感じています。


でも、その心配も、ちゃんと理解できるので、私の人生が幕を閉じたときに、どうだったか、見てみますね。



少し話がそれましたでしょうか。。。

少し戻しますね。


いい考えに出会えたからと言って、自分が至らなさを乗り越えたからと言って、未熟さを忘れていい理由にはなりません。

心地よさを貪る衝動にはなりますが。


そう言った、未熟さへのまなざしがあれば、結果、「許さない」は、アリでも、「許せない」は少し不思議な感じになります。



少々、呼吸困難になりそうなので、まとめますね。


自分を知ること。こと、未熟さに向けての存在を許すこと。そして、むしろそんな私だからこそ、できることがある。と、気付けること。

叶うなら、語らいがあること。そしてその未熟さの謎を解いてあげること。そして、知り続けること。それは、私を諦めない。と、いうことです。


日常の中で、激しい感情と、絶対感に襲われた時、知り続けた私の力が、その時の私の感情を癒してくれます。


正直、不完全なところもあるのですが、今回は、この程度にしておこうと思います。


何か、疑問のある方は、コメントくださいな。


では、また、次回の講釈で。。。





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11 Jun 2020

思い込みについてできること3


上手に扱うことのできない極端な感情の誕生について、お話ししています。


今回は、「夢見心地」と「〜ねばならない。」です。


前回の内容で、私達の内界に生まれる経験を絶対のように感じてしまう物質主義の雰囲気についてお話ししました。


ある出来事に特定の色合いを付け加えるのは自分なのですが、主にそこに関わってるものに、「記憶」があります。

この「記憶」も、とっても不思議で、シュタイナーは記憶は保存されているものではなく、再構築されるものだと、言っています。

私たちが何かを思い出そうとする度に、思い出そうとする何かの雰囲気を頼りに、私達の中で、出来事を再構築するのです。

それを、「記憶像」といいます。ま、「記憶」でも、いいです。

そしてそれは、そのほとんどが無意識に行われます。



そして出来上がった「記憶」は、それはそれは、私を捉えて仕方ありません。そしてそれによって、頭の中で、ソウルドラマが展開し、私は、何かに操られるように、怒ったり、興奮したり、盛り上がったりします。

この自分で、自分が何をしているのか分からない状態を、「夢見心地」と、いいます。


興奮状態の人は、よくこのような状況になります。


この夢見心地状態は、無意識とも言えますが、夢を見ている時の状態に似ています。

例えば、夢の中で、誰かを殺すのですが、なんで殺そうと思ったのかは、よくわかっていない。夢の中で、誰かに追いかけられるのですが、なんで、追いかけられてるのか、わかっていない。

このような状態は、何も、夢の中だけでなく、肉体的に眠っていない状態でも起きているのです。まあ、自分の振る舞いの後に、振り返ってみて、なんとなくの「理由」は見つけられるでしょうが、どことなく、言い訳めいて聞こえるものです。


あ、夢の中で、追いかけられている時、逃げてるのが私で、他人が追いかけてくるのだから、「追いかけてくる人のことなど、わかるわけないよ。」

と、いう考えも理解できますが、基本、夢の中は全て、「メイド・イン私」です。役名は様々でしょうが、役者名は全員自分です。


このように、自分の行動にもかかわらず、自分がなぜそのような行動をとっているのかわからない状態を、「夢見心地」と、いいます。

そして、その状態の中で、「〜ねばならない。」は、よく生まれます。

この言葉は、自分に向けても相手に向けてもぶつけられます。


基本的に、感情的になっている人は、欲求的にもなっています。

つまり、して欲しい感たっぷりです。

その中で、相手に対して、「ねばならない」もしくは、自分のために「ねばならない」をぶつけます。


子どもたちって、そんなふうになってしまう時って、よくありますよね。


私は、大人ですが、そんな風になる時、正直あります。

だからきっと、大人なのに、「子どもっぽい」って、言われる時って、反射的だったり、出来事に対する反応や傾向が決まってたり、それによって、感情的で、要求ばかりを求める状態のことを言うのかもしれません。


繰り返しますが、私は、これらの事を困った事だとは思ってますが、悪い事だとは思っていません。ま、自分も含め、都合は悪いでしょうね。。。


人において、至らない部分、未熟な部分があるのは当然です。成長する存在ですから。どのような事柄であれ、認識の光が当たり、ゆっくりとした理解をきっかけに許すことが出来れば、変化や成長に「私」が参加できます。


この認識と理解をすっ飛ばすのをよく見るのが、「方法論」とか、「how to 」です。結果の果実は魅力的ですから、そこへの抜け道♫ と、思ってそういったものに走りますが、自分の至らなさに対して、共感にも似た感情の理解や、許容がないと、「ねばならない」ばかりになります。

それでも、人生には対応できるのですが、「ねばならない」は自分のどこかを殺す行為なので、疲れて、また、立ち止まってしまう時はあるでしょうね。

そんな時、真面目な人は、できなかった自分を、また責めてしまいます。それが繰り返されると、自分に対する価値を感じられず、無意識にイライラはつもり、思い通りにいかない人生を投げ出したくなるでしょうね。

本当に、辛いと思う。。。。。

ひょっとしたら、「抜け道は結局、回り道」なのかもしれません。


さぁ。そんな風な私達ですが、こう言った感情に対して何もできないわけではありません。


なんせ、この全宇宙で最も自由を上手に扱える存在ですから。


なので、次回より、こう言った感情に向けてできる事を、お話ししてゆくこうと思います。


ちなみに、今日まで原因についてお話ししたのは、ここにも書いた通り、意識の光を当てるためです。

困ってる人、真面目な人ほど、自分の中や自分の人生、また自分にとって大切な人の為に問題や至らなさを解決しようと、逸りますが、解決や、答えがなくとも、認識の光が当たるだけで、実はもう、成長への一歩は歩み始めています。

その光を感じながら、ちゃんとご飯を食べて、好きな人と共に笑い、ぐっすり眠る。

これでも、立派な成長への道になります。


ですが、せっかくの機会なので、次回より、私の思う働きかけを、もう少し詳しく。


「理解」とは何か、「許容」とは何か。などについて、つらつらと、綴りたいと思います。


 それでは、また、次回の講釈で。



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10 Jun 2020

思い込みについてできること2



では、なぜ、そのように、人生を豊かにするように働いてくれないのでしょう。


それは、また、次回の講釈で。。。。



の、続きになります。



前回の話で、「感情」が私たちの経験を親密さを生むほどの豊かさをもたらすきっかにもなりうるものでありながら、ある日常では私たちを常に支配する存在のように働き、その都度、その人から「らしさ」を奪う役割を持ってしまう時がある。


その辺りの原因のお話をします。 キーワードは


「物質主義」です。


ご承知の通り、私たちは今、物質世界に生きています。物質世界との関わりは、知覚によって、私たちの前に現れます。

見ることができ、聞くことができ、触ることができる。これらが可能であれば、すべての人がそれは存在するもの。と、認めます。

目の前に、リンゴがあって、見えているのに、「りんごがない。」とは、誰も言えません。 

これは、かなりの「絶対感」です。


そしてその活動に慣れてくると、私たちは、もう、見ている物を意識しません。反射のように、それを認識します。つまり、いちいちそれが「何か」を考えることはしないのです。

「反応・反射による認識」です。そこには、主に記憶が関与しています。


物質主義というのは、私たちにそのように作用します。


そしてそれは、物質世界を生きる上で、とても大切な活動なのです。

車の運転や、料理、道具を使う日常では、当然です。

ともすれば、3歳までの子どもに言ってはいけないとされている、「早く、早く。」や「ダメ!」と、言い放ってしまう子供とのやりとりも、物質主義の影響なのかもしれません。


ちなみにそれらを避けると、子どもとの間に無意識的な絆が構築されます。


話を戻します。


さてさて、この物質主義がもたらす「絶対感」と、「反射による認識」が私たちの感情を「どうしようもないもの」にしてしまう根源なのです。


私たちは、ある経験をします。その経験は、私たちの外側で展開されますが、その後、私たちの内側で経験されます。

そして、それによって、様々な感想を持ちます。それは、自分だけの感想ですし、その経験の一つの切り口にしか過ぎません。

ですが、私の内側で行われるこの経験に対して、私が目を向けるや否や、反射のように現れるこの認識や感想が、その人の中で、「絶対感」を持って存在します。

そうです。人は、自分の中で生じる事柄にも、この物質的なアプローチを持ち込むのです。それによって、私が経験したことの認識を、私のものでありながら、私にはどうしようもできない絶対感を持って、味わってしまうのです。

そしてまた、記憶がそこに関与しているので、その人にとっては、かなり固い絶対感として、その出来事を定義づけるのです。


その定義付けによって、ソウルドラマが展開され、またそれが、絶対感を持ち、人は、まだ起きていないことで悩むことになります。


本来、出来事は、人によっても、その人の経験によっても、捉え方は様々です。ですが、その様々を完全に無視して、一面的に関わっている時、人は感情的になってしまっているのです。


だからよく、感情的になっている時、その人は「絶対、…」って、いう言葉が出てしまいますね。。


ここで私は、物質主義における作用を悪いものとして、否定しているわけではありません。

先ほども書いた通り、必要な活動です。

ただ、その動きに関与できなかったり、適さない環境に使用することによって、不都合が起きることを、言っています。

ここでいう、適さない環境とは、人の内界を指します。


全ての人の行為や感情や性格の生まれ故郷となる、人の内側に関わる際、地上的なアプローチは、きっかけの役割しかもてません。理解と解決には、あまり活躍の場はないように思います。


その辺り(解決)については、後ほどのブログで書きますが、その前に、もう一つの原因の要素である、「夢見心地」や「ねばならない」を次回の講釈で、お話し、したいと思います。


あ、ちなみに、少々、物質主義に関わってみようかな♪


って、思う方は、次のような、アプローチを思考を使って、コトコト煮込んでください。


(例)

 りんごは何色?

 物事に対する、「知ったこと」と「信じたこと」の区別。

 

では、また。  お会いしましょう。


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8 Jun 2020

思い込みについてできる事 1


思い込みを乗り越えるために、キーワードがいくつかあります。


原因についてのキーワードは…

感情

物質主義

夢見心地

「ねばならない」



解決についてのキーワードは…

理解

許容

イマジネーション

おまかせ or   お手紙



少し面白くなりそうなので、連続日誌として書いてゆきますね。

(あー、コロナ真っ盛りの頃に、これしとけばよかった。『ま、じゃ、あれば第二波で。』)


では、最初の原因キーワード、「感情」です。


まず、感情は魂の活動の一つです。これは、動物も同じように持っていますが、人間の感情と、動物の感情は、同種でありますが、グレードというか、層というか、人間の方が、少し豊かです。


よく、「悲しい出来事」とか、「ムカついた事」と、言いますが、真実は、「出来事」だし「事」です。これは、スピリチュアル的よりも、科学的の方が、賛同してくれる立場でしょう。


ですが、私たちは物事をそのようには見ません。嬉しかったり、楽しかったり、悲しんだり、出来事と出会う時そのように、出来事を味わいます。

そしてその役割をしてくれているのが、「感情」です。

それは、私の内側の世界と、私の外の世界とを結びつけてくれる架け橋のようなものです。

そのようにして私は外で起きた「出来事」を私の感情の力を使って「〇〇な出来事」に染め上げます。そしてそれは、その人にとって、「単なる出来事」を「現実」にする力を持っています。感情が強ければ、「超現実」にすらするでしょう。


一つ助けになるのは、「〇〇な出来事」は現実ではなく、私の「感想」だと言うことを、知っておくと良いでしょう。これは、誰かがあなたに言い放つ言葉もそうです。時折聞く、「きもいな」とか、「うざ」と言う鋭い言葉も、所詮、最大で、その人の「感想」です。

誰かに言い放たれたその言葉に対し、できることがあることはありますし、成長のきっかけにもできますが、あなたを表す「真実」ではありません。


さて、お話戻します。


この、感情によって、「出来事」が「超現実」になると、文字通り、現実を超えるので、妄想が活動を始めます。感情をエネルギーに妄想が展開されることを、「ソウルドラマ」と、言います。


一つの出来事によって、「きっと、こうなる。そしてこうなる。さらにこうなる。」と続いてゆき、まだ起きてない事で思い悩み始め動けなくなってしまったり、浮かれて、我を失ったり、今の状況にそぐわない動きをしてみたりします。 

この状態でよく選択される動きに「逃げる」や「キレる」、「浮かれる」があります。


ま、本人も、「一生懸命」だったり、「必死」なだけなんですけどね。。。「不器用だな」とは、思いますが、「悪い」とは、思わないです。


昨今の状況で言うと。。。。

「私は昨日、東京からの友人に会いました。」→「あなた、コロナに感染したんじゃない?!」→「この人、してるかもしれない?!」→「あなた、仕事やめてもらっていいですか!」 みたいな…?


まぁ。。そうなりますよね。 強い感情が動いてしまえば。


余談ですが、スマホとの関わりが深すぎると、このように、一つの可能性に支配される病にかかるそうです。


さて、また、お話を元に戻しましょう。


感情がそのように、文字通り、「現実」を超えて、その人にとって「超現実」を作り上げ、その人を支配します。そうなると、その人は「ねばならない」の渦に巻き込まれ、「らしさ」は失われ始めます。


人生を歩む際に、世界や霊的存在が頼りにするところの、「自由」と、「らしさ」が失われてしまうのです。

そうなると、不思議なことに、「縁」や「運」とは距離を取ることになりますね。

「思い通りにいかない。」や「空回り」には近づくような気がします。


このようにして、感情は、私たちの日常に、「超現実」を持ち込みます。

これは、決して不必要な力ではなく、平穏な日常で言ったら、夕陽に感動できたり、宝石にうっとりできたり、芸術に感動できたり、友情に感謝できたり、愛に安らぎを覚えたり。

私たちの人生を豊かにしてくれる「色合い」でもあるのです。


では、なぜ、そのように、人生を豊かにするように働いてくれないのでしょう。


それは、また、次回の講釈で。。。。


テーマは、「物質主義」です。




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1 Jun 2020

嬉しさの中



先日。 新しいクラスが生まれました。


メンバーほぼ全員が、彼らが子どもの頃、私が家庭教師という立場で関わった、子ども達です。 15年くらい、あちらこちらで先生をして来て、1人の子が声を上げてくれて、そして、クラスが生まれました。


クラスの中の会話で、ピザを食べながら、どの子も、自分のライフと、そこで出会う人達。また、すれ違うだけの人たちに、「いいことをしたい。」と、表現してくれています。



レジで、イライラしている人を、先に行かせた。

車線変更する車に道を譲った。

自分の損得よりも、その人の笑顔があるから、頼まれたら、引き受ける。

人との関わりにおいて極度の緊張を持つけど、自分の辛さは、置いといて、人に会ってみようと思う。

「みんないい人。」「みんな、すげぇ。」って、笑顔と共に、言える。


…そうすることが、「嬉しい。」と。



ありがたい。 本当に、在り難い。



毎日が、四六時中が、そうでないのかもしれない。それでも、そう思える時が彼らの人生にあるのが、嬉しい。それらは、彼らが彼ら自身に戻れる時間になると思える。


彼らは、私からの影響だと、言ってくれる。

ただ、私が、彼らとの関わりで、そのように導こうと思ったことはない。

どの子にも捧げたかったのは、「絶対安心感」


彼らは、勝手に成長する。彼らにとって大切な時に、なんでもない日常の中で、心地よさと共に、「らしさ」と「自由」を表現できるようになる。


そして世界は、それに対して、「調和」を奏でる♪


このクラスに限らず、全てのクラス、すべての関わりのある子どもたち、大人たちと、この雰囲気を奏でたいと思う。


不思議なことに、自分では未熟さばかりが際立って感じる。言い方を柔らかく言ったが、私の中に悪めいたものも、多々ある。うんざりするほど。


そんな私が、間違いだけではなかったことを、彼らが少し教えてくれる。


なので、「ちゃんとしよう。。。」って、そこから思える。


これほどまでに残念な私が、また今日も、一から始められるきっかけを、生徒さんたちがくれる。


未熟さと、至らなさ、そして悪を見捨てることなく、笑顔で、「大丈夫だ!」って、今日も、歌おう。













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10 May 2020

死の力を使う




「人は死ぬんですよね。絶対に。」


でも、死ぬのは嫌ですが、「死なない為に生きている」わけでもない。

だから、日常で「死」を考えながら生きていない。

どちらかというと、日常親しみがあるのは「楽しく生きていたい」と、いう想いや、「辛い思いはしたくない。」と、いったものです。


「結局死ぬんだから。」

「死について考えたところで…」と、


「死」を避けようと考えたところで、それはきっと目を背けるのが精一杯で、やっぱり、「死」は引き受けることになるのでしょうね。


この、「どうにもならないことを『引き受ける』」っていう動きは、生きて行く上で大切な心持ちだと思います。


そして、その受け入れられるべき「死」には、実は二つあります。


死なないといけない時に訪れる「死」と頑張って死ななければ訪れない「死」です。



前者は、肉体的な「死」。

例えばわたしに寿命がきたり、事故に遭ってたくさん血が出て肉体が破壊されれば、どんなにわたしが生きて行きたくとも、死ななければなりません。

その日をできるだけ遠ざけるために、ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、ちゃんと働いて、ちゃんと遊ぶ。そして、安全に過ごす。こういった事が必ずおとずれる「死」に対してできる事でしょうね。

普通にイメージされる「死」は、こういった感じだと思います。




そして、もう一つは、内的な「死」。


石は生きていません。(今、生命力を獲得しようとはしています。)

植物は生きています。動物もそうです。人もそうです。

その一つの特徴に、「変化する」があります。

生きているものは常に変化するのです。

そう見た時、わたしの中に、なかなか変えられない何かがあったりします。それらは「こだわり」だったり、「傾向」だったり「絶対、〇〇!」と言い放つ時だったり。

これは、人生を作り出してくれる大切な力です。




なので、それらは固く、わたしの中に存在しています。そしてそれらは、わたしが意識して意志を持って「死」を与えないと変わることはないのです。つまり、そうしないと、内的には「生きてない」のです。

内的には、がんばって死なないと、変化が訪れないので、死んだままなのです。

その「死」の表現が、「手放す」だったり「出家」だったり「お任せ」だったり「引き受ける」だったりします。


肉体のほうは違います。自然の法則が、私たちの体を変化させてくれます。肉体の変化は、自然が請け負ってくれています。



しかし、内的なほうは、自分で行うのです。

そのために必要な土台が経験であり、人生です。

きっかけは「感情」がになってくれているように思います。


この人の内側で起こすことのできる「死」。生きていることの証のために生じさせることのできる「死の力」


これは、「諦める」とか、「無気力になる」とかいったものとは、少し色合いが違います。


例えば、誰かが、「歌手になりたい。」と、いうのがあったとします。

ずっと子供の頃からそう思ってました。

それを捨てること。諦めることが、「死の力」だと、皆さんが、捉えたとしたら、それは、わたしの表現に、力不足があったことになります。


もちろん、それも、「死の力」によるものなのですが、わたしが表現したいのは、加えるなら「死の力」すら、人は自由に使える。と、いうところです。


この場合の自由さのかけらを表現するとしたら、


「わたしが本当にしたい事は、歌手にならないと叶わない事なのだろうか?」


「わたしが本当に、したいことの方法を『歌手になる』にだけ、背負わせる事をやめよう。」



などです。



と、なると、その人の将来の歩み方に幅ができます。そこには、表現の豊かさと自由さが生まれます。「らしさ」はより、輝きを増すでしょう。



そうだとしたら、また、大切なトピックが生まれてきます。

それは、「本当のわたしは何がしたいのだろう」です。


これは、大きな問です。



これをここで書く表現力には少し懸念がありますので、わたしと、お話しする機会がありましたら、お尋ねください。


そしてわたしなりに、いつか、表現できるよう、努力しておきます。


つづく。



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7 May 2020

ありがたいことに


ありがたいことに、今日は誕生日です。


わたしが思う楽しさを人生で感じながら誕生日を迎えられるのは、ありがたいことです。


この仕事をして当分経ちます。


肩書きや実績の乏しいわたしが、営業や宣伝を必要とすることなく、口コミという、誰かの信頼の上に成立する伝達の上に、お仕事をいただけている事。


本当に、嬉しく思ってます。


大人の生徒さんたちは、自分の可能性に不確かさを感じながらも、「わたしらしさ」としての成長を諦めることなく、自分自身や、愛する誰かのために、わたしの言葉に耳を傾けてくれたり、自らと語り合ったりしてくれています。


それはわたしの言葉や、わたしとの関わりの結果よりも、時には、痛みや悲しみを感じつつも、その結果までの道を歩いた力が、彼らを、彼女らを豊かにしてくれていることでしょう。



子どもたちは、日常の感情を全身で味わいつつ、必死に人生や環境を理解しようと、緊張したり、疑ったり、浮かれたりしながら、人生における学びの時間をわたしと共に過ごしてくれます。

時には、どうでもいいことを。時には誰にも言えない秘密を。

大切に、大切に、お話してくれます。


願わくば、わたしとの時間が彼らが世界を愛する一つのきっかけになってくれると嬉しく思います。


日々生まれる日常を何でもない風景を、特別にする力が人にはあります。


自由という力を、もっとも使いこなせる人間だからこそできる能力です。


辛かったり、しんどかったり、痛かったり、悲しかったり、そういった側面が人生にあることは事実です。

だとしたら、そんな辛い思いをしたのだから、その人の人生にとって役に立つ何かがそこから生まれないわけがありません。


ただ、それには、その人の「意識」という光が当たらなければ、大切な何かは、なかなか育たず、枯れてしまう事もしばしばです。


ただ、わたしはそれを、それが、そこにあることを、あったことを、知っていようと思います。


悲しみや辛さの中で、どのようなダメなことをしたとしても、間違えたとしても、傷つけたとしても、諦めたとしても、裏切ったとしても、裏切られたとしても、そこには大切な何かが、生まれようとしているはずです。


それがあることを、わたしは、知っていようと思います。


喩え見えなくても、感じなくても。

わたしの感性や感覚や認識の限界があなたの限界になっていいはずはないでしょうから。


知り続けようと思います。


今日は、誕生日です。 今日も、昨日と同様、何かが生まれるのです。





(小噺)


自由を持たない人は、自転車に乗り、進みますが、道の上にある石を見つけて、「誰が、石を置いたんだ!!!」と、止まれないまま、叫びます。

自由を持つ人は、自転車に乗り、進みますが、道の上にある石を見つけて、「石があるじゃん♪」と、言って自転車を降りれる。




不思議です。。。。。




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27 Apr 2020

本当のこと



あらゆるものとの関わりにおいて、真剣さが増せば増すほど、その人は、「本当のこと」「間違いないもの」を求める。


それは、成功したかったり、傷つきたくなかったり、安心したかったりと、様々な想いによって動き出すけど


「本当のこと」というのは、外からやって来ると、疑わがしく、自分の内側にあるものは、本当かどうかではなく、信じたいものであったり、信じようとしているものだったりする。どちらも不確かなので、たくさんの同意や、同じ想いの同士を求めてしまう。


また、どのような事柄に対しても懐疑的な立場しか取れない人の認識能力は麻痺していて、根拠のない懐疑は周りにも、本人にも毒になり、信じることを求める強制は自身からも、隣人からも「らしさ」を奪う。

そうなると、自分の周りには制約的なものばかりで、とても世界で創造的な人生を送れるとは、まったく思ってない。

疲れ果てるので、人生に参加したくなくなってくる。それは、悲しくも、当然のことである。


とはいえ、自身の認識において「確かなもの」「本当のこと」という要素が、私たちに安心を届けてくれる事は事実である。



宗教も、科学も、自身によって洞察できないような「確かなもの」を承認するように求める。その一翼は「信仰心」で、その一翼は「データ」である。

その両翼は感情の風をとらえるのが上手だ。

心地よさはあるものの、夢見心地で生きてゆく事に便利だ。




ただ、何人かの人は、夢見心地でなく、目覚めて、自分で「らしく」いきたいと願う。


承認を求めるような外からの事実ではなく、内側で固く存在する支配的な蠢く頑なさに侵されることもなく。


感情の嵐の中を自由に飛べる能力を目指す。


「疑う事」「信じる事」を超えて「真実」へ突き進む能力が、それである。



その能力を



「知り続ける事」



という。


一つの結果や事実に出会ったくらいで、歩みを止める事はなく、獲得することを目的にするのではなく、歩み続けようとする、関わり続けようとする力。


「良い」も「悪い」も、「正解」も「不正解」も、「意味がない事」も、「効率的な事」も、全てを手放しながら糧にして行ける力。


「知り続ける」


この行為は、どんな外的な規範や強制にも、内側の傾向にも、理想でさえ、わたしを服従させる事はできない。


その知り続ける力を自らに向ける時、最大限にこの能力は輝きを放つ。


それは、ささやかな日常の中から人生全体に作用する何かを発見できる。

そして発見できた「もの」ではなく発見できた「能力」を「本当のこと」「確かなもの」とおける。


そこで生まれる安心感は、辛さや不安を抱きしめることができる。




一人一人、その道や方法は違い、それを「らしさ」と人は感じる。


誰しも、いつからだって、人はその道を歩み始めることができる。




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