クラス日誌とかきおき
辛い事
日常でうまくいかない事。
辛い事。
しんどい事。
こんなはずじゃなかった。とか、そんなつもりじゃなかった。など。
そして、そんな状況の中を、「なぜこんなことをしないといけないのか。」と、イライラしながら人生を歩くときって、あると思います。
そんな時。
少し不思議な視点ですが
「やまない雨はない。」
「きっと朝はやってくる。」
と聞きますが…
きっと、「雨」もまたやってくるし、「夜」もやってくる。(笑)
人生をイライラ歩いてしまっている時、しんどい時。
簡単に解決しない中にいるのだから、しばらくそれは続くのかもしれないけど。
諦められない何かがあるから、繰り返すのかもしれないけど。
そんな時、少なくともその人は自分の人生で起こる出来事に真剣なんだと思う。
環境や、自分に「今」ではない、違う可能性をまだ感じているから、イライラもするのだと思う。
全部解決して、終わると、いいのかもしれない。「気持ちよさ」で忘れる時があってもいいと思う。
けど、悩んでるってことは、辛さの中を歩いてるっとことは、真剣だ。って、こと。自分も人生も諦めてない。って、事。
魂の成長に「確かさ」を与えてくれるのは、そういった「辛さ」という「重み」なのかもしれない。
そう気づくと、少し。
雨の夜を歩く景色に、これまでとは違う感情を感じる。
繰り返しの力
(作業内容)
一つの点から水面に向けて光が当たり
その反射がもう一つの点を目指してそれに向かい
その上昇と下降を結ぶ。ただその繰り返し。
(経験)
何度も同じことをしているはずなのに、自分がどこを目指すべきか迷ってしまう。
自分がした過去のラインが今のわたしの行き先を迷わせる。
間違ってしまったことは、意図せず作られる真ん中の丸の調和が教えてくれる。
たくさんの迷いと、間違いを繰り返して、繰り返すほど増してゆく複雑さの中を、それでも繰り返してゆくと
今まで迷わせていたこれまでのわたしの線が、今、生み出そうとしている線の助けとなってくれる。
何と何を結びつければ良いかは、目よりもむしろ手が教えてくれる。
ひとまずの繰り返しが終わった時、その中心には美しい丸が現れる。
美しさに囚われることもなく、美しさの奴隷となることもなく
只々、まっすぐに。 思い切りと、丁寧さとを繰り返しの意思によって。
気がついた時、わたしの丸を囲む星に気づく。
ちゃんと、見守られていたこと。
全てが無駄でないと。言い切れる瞬間がやってくる。
12感覚の授業より
覚書
ほんの少し気がついて。また忘れて。。。そして、また日常が思い出させてくれる事柄です。
「ありがとう」は魂に正しさを教えてくれる。
一つの事柄の中に矛盾が存在するからこそ、新たな成長の可能性が生まれる。
魂が偉大な人は過去からの経験だけで現在を決めつけたりしない。
想いと違う出来事に出会った時。魂は成長のきっかけを迎えられる。
どんな知識よりも自分を知ること以上に知識を豊かにするものはない。
こんな感じかな。。。。。
肩書き
わたしはよく「肩書き」がないことに驚かれたり、戸惑われたり、そしてわたしが困ったり。することがよくあります。
肩書きとは、なんとなく、その人ができること。役に立てることをお伝えするものだと思ってます。
だとしたら、わたしは、わたしをどのように使うのか、どのように役立てるのかは
「まかせようかな」
と、思ってます。 加えて、わたしは仕事を全て誰かのご紹介でさせてもらってます。誰かの信頼の上に私は働けています。
その機会が多いので、「肩書き」は、いいかな。っと。
想いとして、願わくば「上手に使ってください。」くらいです。
機会としては「先生」と呼ばれる機会が多いですが、生徒さんのために、学校に迎えに行く時もあれば、深夜まで電話をする時もあり、晩ご飯を作る時もあれば、講演したり、報酬が発生する時がほとんどですが、全くない時もあったり。
以前、カウンセラーの方にも、学校を運営する校長先生にも、「プロではない」と、言われたこともあります。
そうですね。。。 きっとそうなんだと思います。
「では、『プロではない。』と、言うことで…。」自由にさせていただきたく思います。
「素人田中」くらいでしょうか?
問題ありません♪
肩書きは、お任せしますので…。
早めの年賀状をいただきました。 やんわり、「予言」が書いてありました♪
どんな有能な占い師よりも、日常で会うこの子からの言葉は、安心感と心地よい緊張感をくれます。
日々の暮らしの中で喜びを置き去りにせず
魂に自由な可能性を感じながら義務を果たせてゆけたなら
きっと、わたしが希望を失うことはないでしょう
本当に、ありがとう。
「覚書」
"許せない事"
人生を歩く中で
大切何かに出会えた時
それが人であれ物事であれ
それらを傷つけられたら、きっと、許すことはできないでしょう
それは、被害を受けた。
傷を負ってしまった人の『権利』のように感じます
魂についたその傷は人によっては、これからの可能性を閉ざす
トラウマとして
存在するかもしれません
簡単には誰かを「許す」とか
「水に流す」とかできないように感じます
そうですね。。。
わたしも、無理に許すことはことはしなくていい。と思ってますが
その事に、囚われることがないように。。
とも、思っています。
「許さなくともいいですが、どうか、囚われませんように。。。」
覚書
正義は剣でなく盾である
昨日、クラスの方でも、石を積んでみました。
本当に、みなさん上手にしてくれて、あっという間の90分。 黙々と、石とお話する時間。
当然相手は、物言わぬ存在なので、その子(石)がどのようにしたいのか…。
「ちゃんと尋ねてあげないと。」
「ちゃんと聞いてあげないと。」
「そのために自分を動かして、石をうごがして。」
そして、うまくいかなくても、石を責めることなく、可能性を信じて、また、石と関わって。。。 淡々と。淡々と。
そして石の持つ、物言わぬ可能性と私の関わりの積み重ねが、このような形で、石を立たせて、それを「美しい」と、讃えることができる。
本当に、関わりにおいて、とても素敵な時間になりました。
この石積みの、説明も、意味も、コツも、全てそれらを自分の力で石と見つけ出された生徒の皆さんには、本当に感謝です。
いいものを見させていただきました♫
ありがとうございました。
覚書
「ありがとう」は魂に正しさを教えることができる。
昨日の朝。 新しい趣味ができたので、ここに残すことにしました。 以前、京都へ結婚式に出向いたとき、河原で、立つ石をいくつか見つけました。
いつかやってみようと思って、やってみると、15分ほどで、この形に。
面白いのは、触って、探っていると、石がどのようにすればいいのかを教えてくれること。 どのようにするかは、石が教えてくれる。と、いうか。。。
これは、私が生徒さんと向き合ってるときに起こる感覚と似ています。 目の前にいる子どもや、大人の人のために何ができるかは、その人が教えてくれる。たとえ言葉や会話にならなくても。 その時の私の感覚は自由で、ゼロで、無限で。。。 確信が内側と外側とのハーモニーになる感じであり、とはいえ、そこに執着もないので、簡単に手放せる。
常にとはいかないのですが、できるだけ、常にそのように在りたいと、感じています。
それを思い出させてくれる、新しい趣味です。
ちなみに、賽の河原では5つ積み上げることを目標に子どもたちが三途の川のほとりで、頑張っていると聞きました。 挑戦してみようと思います。
覚書
瞑想。 能動的に「何もしない」を行うこと。その力は「巻き込まれない力」になる。
ステキな「絵馬」
先日、山陰のある神社でこの絵馬を見つけました。 書いてあることは、結構全国共通だと思います。 「就職できますように。」とか、「元気な赤ちゃんが授かりますように」とか、それで正解ですし、何も間違っていないのですが、1つ、「絵馬」への書き方の新たな表現を見た気がしてます。
最後の部分にある、「もっといいことが、できますように。」のところ! 「もっといいことが、ありますように。」 ではなく、「できますように。」です。。
なんともいえない「素敵さ」です。。 神様の前でこの表現は、本当に美しい。。。
見習うところがあります。 なので、この場でもそうでしたが、この絵馬の言葉をゆっくり自分の中に響かせて見てます。
不思議な雰囲気に心が包まれます。